2019年5月12日日曜日

NHK交響楽団第1912回定期公演(2019年5月12日、NHKホール)

ゴールデンウィーク明けの週末には、毎年タイ・フェスティバルが代々木公園で開催される。足の踏み場もないような人込みの中を、NHKホールに向かうのは、それだけで大変な労力と時間を要する。そのような週末に、何も定期公演をすることもないだろうに、と毎年思うのだが、決まってこの週末は演奏会が開かれる。NHKも気を使って、いつもは通れない通用口を開放し、便宜を図っている。そうでもしなければ、容易にたどりつくことができないのだ。

そこまでして出かけるには、どういうわけか毎年、この5月の定期に見逃せない演目が組まれるからだ。今年のAプログラムは指揮者にエド・デ・ワールトを迎え、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と、アダムズの「ハルモニーレーレ」という異色の組合せ。ピアノ独奏は、デ・ワールトを同じオランダ人のロナルド・ブラウティハム。後者は1985年の作品で、初演時の指揮をしたのがデ・ワールトだったというから、聞き逃す手はない。このミニマル音楽の作品は、とても恰好が良くてエキサイティングな曲で、現代音楽にもかかわらず数多くのディスクがリリースされている。

私は先月、自分自身のクラシック音楽鑑賞の一区切りとして、シェーンベルクの「グレの歌」を聞き、ベートーヴェンから続く芸術音楽(それはロマン派の音楽と言ってもいい)を俯瞰する有名作品の最後を鑑賞したつもりだった。もうしばらくコンサートにもいかないかも知れないと、その時は思ったものだった。ところが早くも、一昨日にはワーグナー・アーベントと称される新日フィルの定期に出かけ、「パルジファル」の音楽などを聞いたところだった。すると今回聞いた「ハルモニーレーレ」は、その第2部が「アンフォルタスの傷」と名付けられている。つまり「パルジファル」と同じ聖杯伝説を題材としており、その音楽ではマーラーの交響曲第10番にも用いられた和音が鳴るという。

そもそもこの作品はロマン派の音楽を強く意識した作品である。解説によれば、題名「ハルモニーレーレ」自体、シェーンベルクの同名の著作から取ったものだという。「和声楽」を意味するこの単語は、調性に対する大きな関心から派生している。つまりいみじくも、4月に聞いたシェーンベルク、一昨日聞いた「パルジファル」に通じる作品として、今日の「ハルモニーレーレ」が存在しているということになる。偶然とはいえこの連続性に私は何か運命的な関連を感じている。

7割程度しか客席が埋まっていないというのに、私はいつもの自由席ではなく、A席を購入した。1階右寄りの最後部である。隣の席はすでに埋まっていると思っていたが、実際に座ってみると両隣2席ずつ、そして前の列にもほとんど人はいない。だからリラックスして聞くことができる。ここではオーケストラの音が、おそらくすべて直接波で届く距離で、しかも指揮者のタクトが良く見える。ベートーヴェンの「皇帝」を引くブラウティハムは、古楽の奏者として知られており、従って今回使用されるであろうフォルテピアノは、そもそも音量がさほど出ないから、近くで聞くべきだと考えた。アダムズの大迫力は、やはり近くで堪能したい。そんな理由が私をA席に誘った。

オーケストラが登場すると、その前に設置されていたのは通常の(モダン楽器の)ピアノだった。そして指揮者がタクトを振り下ろした時の冒頭の和音を聞いて、私はやはりN響の音はいいな、と心から思ったのだった。

ずっしりと重い音がフォルテで鳴っても、決して濁っていない。それが身近で鳴った時の身震いを覚えるような感覚は、前方席の効果である。さらにはピアノ音の綺麗なこと!ブラウティハムは大きな体をピアノの前で揺すりながら、まさに「皇帝」に相応しいような華麗さで、一気に最後まで走り抜けた。伴奏も中庸を得た安定感のあるもので、まるでCDをそのまま聞いているようなきれいな音のブレンドが展開された。私にはブラウティハムのピアノは、どこか小節をわずかに早く始めるような、つまり少し流して弾いているようなところが目に付くのだったが、熱烈な拍手に応えて演奏された「エリーゼのために」はうっとりするような演奏だったと付け加えておきたい。

今年から20分に延長された休憩時間によって、老人たちもゆっくりとトイレを済ますことができるようになったことは喜ばしいことだ。そしてロビーから帰ってみると、舞台上のオーケストラが2倍程度に増強されている。最後列にずらりと並ぶ数多くの打楽器が、この位置からではちょっとわかりにくいが、解説によれば以下のものだ。

ティンパニ、マリンバ、ビブラフォン、シロフォン、テューブラ・ベル、クロタル、グロッケンシュピール、サスペンディッド・シンバル、シズル・シンバル、シンバル、ゴング、ベル・ツリー、タムタム、トライアングル、大太鼓、ハープ(2台)、ピアノ、チェレスタ。

指揮者がタクトを下すと最初に鳴った冒頭の音に、またもやのけぞるような驚きを禁じ得なかった。大音量になって鳴り響く連続音の嵐!この迫力は、やはり再生機では再現できないものだ。音楽はやはり生で聞くものなのだ、などと思う暇もなく叩きつける和音が、次第に早くなっていく。「寸分の狂いも許されないほどに精緻に構成された」第1部は、サンフランシスコ湾に浮かぶタンカーが空に飛び立つようなイメージだというが、そんなこともどうでも良い。

私は良く見える指揮者のタクトを追ってみた。デ・ワールトはさりげなく、手慣れた手つきで拍子をとっているのだが、一体どこでどう入ればいいのか、よく奏者はわかるなあ、などと感心してしまう。その拍子は3拍子、4拍子あるいは6拍子を繰り返しながら、様々な音が重なってゆく。ミニマル音楽独特の刻むリズムが、一定の時間を経過後に微妙に変化し、その変化を暫時的に繰り返しながら、複雑な音色を重ねて行く。メロディーを期待しない方がいい。何かロックを聞くような感じで体を揺するが、そこはクラシック音楽である。時折拍子が変わったり、珍しい楽器が飛び出したりと、飽きることなどない。

第2部に入ると、それでもミニマル音楽の特性は影を潜め、末期ロマン派の不協和音が取り入れられている。が、メロディーというものが感じられない。つまり、第1部では調整があってリズム中心の和音の反復、第2部が調性のある不協和音の音楽(もしかしたらクラシック音楽の愛好家はここの部分がもっとも馴染み易いかも)、そして第3部では再びミニマル音楽に回帰する。

第3部でも反復される音楽が、打楽器をより多く加えて快速に走る。その陶酔をも感じさせるような心地は、音楽を生理現象として捉える必要すらあるのかも知れない。リズムは3拍子が中心のように思えたが、デ・ワールトは丁寧に拍子を刻んでいる。楽団員がよくついてくるな、さすがはプロだな、などととりとめのないことを考えながら、こんな指揮でもひとつ間違ったら大変ことになると思うと緊張感が伝わって来る。そのスポーティーな気分は、聴衆を浮き立たせていったに違いない。終わるとまたたくまに多くのブラボーが飛ぶ。身を乗り出して拍手する人たちが、1階席にも大勢いた。もはや巨匠の域に達するデ・ワールトの、これは職人的な棒さばきだった、と思う。迫力と興奮に満ち、N響の力量と指揮者の熟達の安定感に感服した圧巻のコンサートだった。

シェーンベルクによって壊された調性が、ここで再び意味をもたげているのが面白い。もしかしたら、これは「その先」を開いた音楽なのかも知れない。つまり調整は無視できないということだ。今日のコンサートはベートーヴェンの「皇帝」で始まったが、この作品は変ホ長調で始まる。そして「ハルモニーレーレ」もまたフラット3つの変ホ長調で終わる。

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