2019年5月27日月曜日

NHK交響楽団第1913回定期公演(2019年5月18日、NHKホール)

どうしようかと迷った挙句、前週に引き続いてN響のコンサートに出かけた。同じ月ではあるものの指揮者は変わり、今回のCプログラムはエストニアの重鎮、ネーメ・ヤルヴィである。今は80歳を超える旧ソ連の老指揮者は、レニングラート音楽院で学び、ムラヴィンスキーに師事した。アメリカやイギリスでの活躍も有名で、録音した曲はカラヤンを超えるという噂もあるほどだ。私もシャンドス・レーベルより発売されているいくつかのCDを持っているし、日本との関係も深いようだが、実は一度も実演に接したことがない。息子のパーヴォはN響の音楽監督だから、こちらの方は何度もあるのだけれども。

だが、私はこの演奏会の記録をこれまで1週間も書くことができなかった。大きなショックに見舞われていたからだ。理由は3つある。第1にネーメ・ヤルヴィの音楽が、そのCDで聞ける以上のものではなかったこと、第2に満を持して座ったS席の隣の女性が、コンサートの間中寝続け、それはフラフラと時折私の視線を脅かし、さらに驚くべきことにそれがプログラムの最後まで続いたこと(この人は一体何のために来ているのだ?)、第3にトゥビン、ブラームスと続く曲の如何ともしがたい悲劇性に辟易し、少なからぬ戸惑いを感じざるを得なかったこと、である。これらはいずれもネガティブな印象を私に残した。まあ、実際のコンサートは良い時もあれば悪い時もある。客観的に言えるわけではないのだが、少なくとも私にとっては、失望以上の混乱を巻き起こしている。そのことについて、主に書いておきたい。

ネーメ・ヤルヴィがもはや細かい指示の効かなくなった指揮者であることは間違いがなく、若い頃の演奏がどうだっかまでは知る由もないのだが、この指揮者は細かい表情を付ける以前にオーケストラの自主性を重んじていたようだ。こう書くとポジティブな表現だが、言い方を変えれば、オーケストラの技量に頼っている。少なくとも今回のN響との演奏は、そのように感じた。だから称賛されるべきは、指揮者が細かく言わなくても大いに真面目な演奏することができるN響のすぐれたアンサンブルだろう。そのことがかえって音楽を平凡なものにしたことは言うまでもない。もちろんネーメなりの大きな部分の骨格は、この指揮者のものだ。だがそれは、テンポを速めて情緒を排したものであることは数々の録音からも知る事ができる。

今回の演奏会におけるネーメの作る音楽は、そういう理由から極めて凡庸なものだ。そこにそうとは感じさせないものを何とか維持したのはオーケストラの優れた素質に基づくものであることはすでに述べた。巨匠指揮者にあるような大家としてのオーラが感じられたわけでもない。この場合には、細かい指示ができなくてもそこからは極めて音楽的な表情をオーケストラから引き出す類稀な演奏があり得る。だが、今回の演奏はそのレベルからは程遠いものだ。ブラームスの交響曲第4番第2楽章などを聞けば、それがいかに無味乾燥なものだったかがわかるだろう。

ただ、最初の曲、シベリウスの短いが印象的な「アンダンテ・フェスティーヴォ」においてはヤルヴィの良い面が表現されて、精緻で丁寧な演奏だったことは触れておきたい。けれどもこの曲は、唯一シベリウスが自作自演した録音が残っていることが知られているけれども、わずか5分ばかりの曲である。続くトゥビンの交響曲第5番は、この作曲家を知らしめた功績で知られるヤルヴィの、いわば第一人者としての評価が、他の評論を寄せ付けない。スウェーデンへの亡命を果たしたトゥビンの、母国エストニアに対する思い(あるいはソ連に対する抗議)は、自らアメリカへ渡ったネーメの経歴にも重なる部分があるのかも知れない。それゆえにこそ生じる一種の確信に満ちた足取りは、オーケストラから鋭いドラマチックな演奏を引き出した。

私の隣に座っていた女性が頭を揺らし始めたのは、難解で聞いていてそれほど心地よい音楽ではないトゥビンの曲が始まって直後のことだった。私は今回の演奏会で、初めて1階のS席に座ったのだが、考えてみればこのような高価な席では、むしろ客層が良くないと感じることもしばしばである。そして驚くべきことに、この女性の居眠りは、休憩を挟んだ後半のプログラムの間中、途切れることはなかった。おそらく大半の聴衆が期待しているブラームスの交響曲の第2楽章あたりまでは、まあ眠くなることもあるだろう。だがしかし、第3楽章の、結構賑やかな部分を経て最終楽章に至る頃には、オーケストラの音量も集中力も増してくると、一種興奮に似た心境に(このたびの演奏でも)達するものである。

オーケストラを前の方で聞いていると、見た目にもその熱量は伝わってくるわけで、その間中を寝て過ごす理由が私にはわからない。さらに驚異的なことは、演奏が終わるとこの女性は、眠りから覚めて拍手をし始めたのだ!天気のいい初夏の休日の昼下がりに、生のオーケストラの演奏を聞きながらうたた寝をするほど贅沢なことはない。けれどもそのために1万円近い金額を支出し、しかも周りの客に迷惑をかけ続けるまともな理由は見当たらない。

想像するにこの席は彼女の両親の予約席だった。この両親はいつも連れ立ってホールに足を運ぶのだが、今回に限っては何かやむにやまれぬ事情があったか、あるいはプログラムが気に入らなかったのか、出かけることができなかったのだ。母親は娘にこう言ったのだろう。「今日はお父さんの体調が悪いから、私たちは行けないわ。あなたもたまにはクラシック音楽でも聞いてみたら?」そういわれた育ちのいい娘は、一緒に行く彼氏や友人もおらず、単身着飾ってコンサートに出かけてはみたものの、どうも難解で難しい曲ばかりで退屈である。とうとう日ごろの疲れに呼び寄せられた睡魔が彼女の体を覆ったに違いない。そういえば彼女の隣の席は空席だった。

だが彼女に同情する要素が、わずかにでもあるとすれば、それはこの演奏が平凡だったことに加え、ロ短調(トゥビンの交響曲第5番)、ホ短調(ブラームスの交響曲第4番)というプログラムの悲劇性だ。ロ短調と言えば「未完成」(シューベルト)と「悲愴」(チャイコフスキー) で有名な濁った趣きの調だし、ホ短調と言えばマーラーの交響曲第7番を思い出す。悲しみの調である。

私はブラームスの交響曲第4番という曲が、どうもあまりしっくり来ない。この曲はすでにマーラーが活躍していた時代であるにも関わらず、あまりに古い様式の曲である。ロマン派後期の斬新性を兼ね備えていると言うが、それが積極的に表現されると非常に激情的な演奏になるし、それらを隠してロマンチックな情緒を前面に押し出すと、通俗的な曲に陥る。後者の場合には、第2楽章などをゆっくりとしたテンポに落とすだろう。日本人の多くのファンが好む演奏である。だが、そういった演奏は、この曲の持つ本来の魅力を伝えていないような気がする。このたびのネーメの演奏は、「枯淡の境地」などと言われる抒情的な演奏の対極にあって、むしろロマン性を排除さえしている。けれども、クライバーの目の覚めるような演奏や、その後にリリースされた多くの古楽器風の演奏の後では、あまり語ることにない古風な演奏のひとつでしかなかった。

多くの期待を抱き、それなりの資金を投じながら、これらの理由が重なってあまりに悲劇的な結果に終わったこのたび演奏会も、演奏自体に技術的欠陥は見当たらず、暖かい拍手に包まれた。ネーメの若い頃の指揮を知らないが、おそらく息子はその演奏の良い部分と悪い部分を彼なりに分析し、受け継いだに違いない。パーヴォ・ヤルヴィの、もっと統制された、見通しが良くてリズミカルな演奏を聞くと、その違いがわかって面白い。そういう意味で、来月のパーヴォの指揮が、また楽しみではある。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...