2019年5月28日火曜日

ヴェルディ:歌劇「運命の力」(英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ・シーズン2018/19)

これまで何度も「ヴェルディの階段」を昇り降りしてきた。「ヴェルディの階段」とは私の造語で、ヴェルディ作品の発展を段階を意味している。1階にはまだベルカントの様式を残しつつも、若さとエネルギーに満ち溢れた初期の作品の数々が、2階部分には「リゴレット」「椿姫」「イル・トロヴァトーレ」を代表とする中期の作品群が、そして3階にはこのたび触れることになった「運命の力」や「ドン・カルロ」などの充実した大作が並んでいる。階段はまだ続き、上階には「アイーダ」が、さらに上には「オテロ」、最上階には「ファルスタッフ」といった具合である。

いずれも力溢れる名作ばかりの作品を、その初期の作品を除けばほぼすべて、実演かもしくは映画館でのライブ上演で接したことになる。ただ「運命の力」だけが残っていた。この作品は、「仮面舞踏会」や「シモン・ボッカネグラ」と並ぶ玄人好みの実力作品で、ストーリーに華やかさこそないものの、ドラマチックで重量感に満ちた「まさにヴェルディ!」と言いたくなるような作品である。「運命の力」には序曲がつけられていて、その高カロリー、ハイ・パワーな曲を聞いただけで身震いがするほどである。

「運命の力」がなかなか上演の機会に恵まれないのは、豪華な歌手陣を揃えることの困難さに加え、その歌唱が大変に難度の高いものだからであろう。陰惨なストーリーには、ソプラノとテノールによる「愛の二重唱」もなく、代わりにバリトンとテノールが決闘しながら歌うシーンが何度も登場する。祈りのシーンも多く、宗教色が強い。加えて、演出の難しさも指摘するべきだろう。場所はセヴィリャ、イタリアなど各地に亘り、時間の経過も大きい上に、そこに差しはさまれる滑稽な宴会シーンが、全体の集中をそぎ落としかねない。

そういった困難さを乗り越えて、今年の英国王立オペラハウスでは、一般前売りの前から全公演のチケットが売り切れるという前代未聞の事態が起こったらしい。それはキャストを見れば納得が行く。カラトラーヴァ侯爵の娘レオノーラにソプラノのアンナ・ネトレプコ、レオノーラの恋人でインカの血を引くドン・アルヴァーロに、テノールのヨナス・カウフマン、復讐に燃えるレオノーラの兄ドン・カルロに、ヴェルディ・バリトンの第一人者ルドヴィク・デシエという布陣である。ついでにグァルディアーノ神父にはバスのフェルッチョ・フルラネット、ジプシー女のプレツィオジッラには、ヴェロニカ・シメオーニ、グァルディアーノ神父と好一対をなすコミカルな神父、メリトーネにアレッサンドロ・コルベッリ、カラトラーヴァ侯爵には往年のロバート・ロイドが第1幕で少しだけ出演している。指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はドイツ人のクリストフ・ロイ。

 運命の力は、ひょんなことから一家を滅亡に追い込む陰惨な結末となる。こういった舞台はスペインこそ相応しい。だかヴェルディはこのオペラを、サンクト・ペテルブルグからの依頼で作曲した。初版の台本は「椿姫」や「リゴレット」を手掛けたピアーヴェが担当し、ヴェルディ自身もジュゼッピーナ夫人を伴って極寒のロシアへ赴いている。だが、初版の結末があまりに惨かったこともあって、改訂作業にとりかかる。病床のピアーヴェに代わって台本の改定作業を行ったのは、後に「ドン・カルロ」と「アイーダ」の台本を手掛けるギスランツィオーニだった。

改訂版の最後では、それまで共に死ぬ設定だったドン・アルヴァーロのみが生き残り、天国に上るレオノーラと、彼らを見守るグァルディアーノ神父との美しい三重唱によって消えゆくように終わることになった。今回のコヴェント・ガーデンでの上演もこの改訂版に基づいている。

さて、舞台はパッパーノの指揮する見事な序曲から始まる。序曲のシーンですでにパントマイムが演じられるのは最近流行りの傾向だが、この舞台では子供たちが英国式の食事をとっているシーンから始まる。この子供たちは、幼いレオノーラや兄のドン・カルロが厳格な父に厳しくしつけられている。みな上流階級の衣装をまとっているが、これは舞台を20世紀前半に移しているからだ。このカラトラーヴァ侯爵家の一室が、これ以降に続くすべての舞台が演じられる共通空間となっていく。このことによって、舞台が散漫になることを防いだという見方もあるが、初めて見る私としては何とも物語に広がりがない。戦場のシーンも修道院のシーンも、あるいは第3幕の宴会のシーンも、同じ空間なのである。

第1幕に入っての見どころは、レオノーラの駆け落ちへの葛藤と、ドン・アルヴァーロの投げ捨てたピストルの暴発シーンである。レオノーラは愛する父親に反逆して駆け落ちを決意するが、それまでの父と娘のやりとりは、またもやヴェルディが全作品で見せた「父と娘」の愛情物語で、ここでもか、と思った。ここでレオノーラはまだ純情な少女だが、この舞台での紅一点の彼女は、このあと第2幕で男装した旅行客に、第4幕で一気に老けた修道女として登場する。その歌唱の見事な変化が、このオペラの最大の見どころのひとつかも知れない。もちろん、ネトレプコはこの変化を見事にこなし、それどころか今や彼女はヴェルディのすべてのレパートリーを満点でこなす大女優としての一面を、安定的に示し得た、まさに面目躍如たる円熟の舞台であった。特に第2幕の幕切れで、僧侶たち(男声)に合わせて歌うレオノーラの祈りは、ヴェルディの音楽が心に染み渡る瞬間だった。

第2幕がレオノーラ中心の舞台だとすれば、第3幕と第4幕の第1場はドン・アルヴァーロとドン・カルロの舞台である。男声二人による目まぐるしい関係の変化を、カウフマンとデシエは丁々発止繰り広げる。その不幸な出自ゆえ翳りがあって輝かしいカウフマンの声や容姿も役にピタリとはまっているが、それにも増してヴェルディらしさに溢れていたのは、デシエだったと思う。

3人の主役がそれぞれ第一の持ち歌を歌うシーンに、観衆が大声援を送る様は見ていて気持ちがいいのだが、それに加えてこのオペラの多彩な見どころが、今回のシネマ・ライブでは楽しめる。すなわち、ジプシー女の小唄「太鼓の響きに」(第2幕第1場)、物売りが戦地に登場して舞台が一気に乱痴気騒ぎと化す「タラプラン」(第3幕第2場)などである。これらの滑稽な挿入は、そこことがかえって悲劇性を助長するという効果をもたらすが、それも一歩間違えば、冗長さのあまり緊張の糸が切れかねない。だがそのことに関しては、今回の演奏と演出は大成功だったと言える。舞台で繰り広げられる、まるでミュージカル風のダンスは、見ていて楽しいものだったし、かといって連続する暗いストーリーを邪魔するものでもなかった。

幕間のインタビューで再三再四指摘されたのは、この作品の持つ宗教性とヴェルディ自身の教会との関りである。なぜなら教会の欺瞞と通俗性が、ことのほか強調された台詞が多いからだ。けれども一方で、ミサ曲にも通じるような歌詞とそれにつけられた祈りの音楽が、例えようもなく美しいのもまた事実である。祈りの作品は二人の神父の性格を際立たせることによって、大変見ごたえのあるもにになっている。すなわち、グァルディアーノ神父とメリトーネである。特にメリトーネを演じたコルベッリは、そのやや小柄で小賢しい歌によって、ピタリと役にはまり聴衆の拍手も一等多かったような気がする。

パッパーノの充実した指揮は、この長い作品を通して常に目を舞台に釘付けにする重要な役割を果たしていたことは、もはや言うまでもない。全体に完成度がすこぶる高い作品に仕上がった今回のシネマ・ライブだが、私はこれまでMETライブ(もう10年以上続き、私はこれを80作品以上見て来た)とパリ・オペラ座ライブ(最近やっていないようだが) しか見たことはなく、英国ロイヤル・オペラまで同様の企画をしていたとは最近まで知らなかった。今回の上演を見る限り、その完成度はなかなか高い。インタビューが中心で、幕間の舞台裏まで見せるMETとは異なり、むしろ作品に焦点を当て、その内容を掘り下げるというやり方は、作品の見るべき焦点を定めさせてくれる。

私はふだん東京のどこかでシネマ・オペラ作品を見ているのだが、今回は関西への出張が重なり、悩んだ挙句、西宮のTOHOシネマでみることになった。直前まで上映時間がわからず、予定を組むのが大変だった。さらに言えば、5000円と言う値段はいくら何でも高すぎるだろう。そういうことで、若干の不満もあるのだが、上映された作品自体については、前評判通り文句なく最高峰の見ごたえであったことは確かである。これで私は「ヴェルディの階段」に登場する主要作品のすべてを、このブログに書くことができた。あとは初期の作品をひとつずつ、楽しんでいく日々が待っている。すでにムーティのBOXセットを買ってある。私は重量級の後期作品よりも、初期の若きパワーの爆発する作品の方が、実は好きなのかも知れない。

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