2019年11月9日土曜日

アンドラーシュ・シフ/カペラ・アンドレア・バルカ演奏会(2019年11月8日東京オペラシティ・コンサートホール)

かつて私をときめかせたハンガリーの若いピアニストも、もう六十代の後半にさしかかっていた。それでもまだ十分聞き手を魅了して止まないシフの演奏を、私も生きているうちにライブで聞くことのできる機会が訪れたことは、今年最大の出来事であった。

東京にようやく晴天の続く本格的な秋空が戻り、街路樹も次第に紅葉しはじめたここ数日の間、私はもう何日も前から臨戦態勢で仕事をやりくりし、体調を整えてきた。11月8日は金曜日で翌日は会社が休み。そういうベストな状態で、この日を迎えた。私は最初に誘った妻が所用で行けなくなり、急遽、高校時代の友人に声をかけた。とても嬉しいことに、一緒に出掛けてくれることになった。

今宵のプログラムは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲演奏会のうちの2日目で、第1番ハ長調と第5番変ホ長調「皇帝」である。伴奏は、彼がソリスト・クラスの演奏家を集めて結成した室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」である(その中にはベルリン・フィルなどで活躍し、今ではシフの妻となった塩川悠子もいる)。シフは今回、この仲間たちとともにアジア各国を回るツアーの途上にあり、特に大阪と東京ではベートーヴェンのピアノ協奏曲ツィクルスを開催するようだ。

満員のホールに現れたシフは、ゆったりとした足取りでピアノに到達し、手を広げてオーケストラを指揮し始めた。ベートーヴェンがかつてそうしたように、今日のコンサートは弾き振りで、編成は初演当時のように小さく、弦楽器にも独特の渋みが加わっている。これはビブラートを抑えた効果によるものだろう。コントラバスは二人しかおらず、両翼に分かれてシンメトリックな配置を構成している。その中央にピアノ。上から見るとやや斜めに置かれている。ピアノは反射板を開け放たず、聴衆の方に向けられている。

ピアノ協奏曲第1番は、ベートーヴェンのデビューを飾る曲の一つだ。瑞々しい感性と若々しいエネルギーが溢れている。ボンの片田舎からウィーンに出て、技巧派のピアニストとして名を馳せてゆく。まだ耳もよく聞えていた頃のことだ。けれどもこの曲を聞いていると、ベートーヴェンが晩年にまで持ち続けた実直な心と、飾り気のないロマン性といった個性を早くも感じる。その趣向は、後年深化することはあっても、決して消えなかったベートーヴェンそのものの感性である。

ハ長調、聞いてよくわかるソナタ形式、長大なカデンツァはそれ自体がまるでソナタの一楽章に匹敵するような規模を誇るのも異例だ。第2楽章の歌うようなメロディーは一度聞いたら忘れることはない。第1番からすでに、結構な規模とロマンチシズムを湛えた曲を書いていたのだと驚く。この時点でまだシンフォニーは一曲も作曲されていない。

シフは、ときおり立ち上がってオーケストラの方に向かって手を振り上げる(それもベートーヴェンがやっていたことだ)だけでなく、しばしば左手が空いているときなどは、右手では旋律を弾きながら、左手で細かい表情を伝えて行く。そういったやりとりもみどころだったが、驚くべきことは、この有機的な室内オーケストラが、まるでひとつのクァルテットのような自立性を持っていることだ。シフのピアノが常に同じ表情なのかどうかは、他の演奏を聞いていないのでわからない。だが、少なくともどんなピアノのフレーズになったとしても、それを受けるオーケストラは、即興的にその細かい表情を見逃すことがない。

齢50も過ぎると、この先何年音楽を聞き続けることができるのだろう、などと考える。音楽は書物と違って、読み飛ばすことができない。演奏される速度でしか、聞くことができない。私は特に、過去に2度の大きな病気をしているから、なおさらである。この曲をあと何回、じっくりと聞くことができるのだろうか、と考える。

もしかしたら、これは演奏家も同じではないだろうか?演奏家の場合、練習を重ねて弾きこなせるようになる必要があり、その意味では、もっと事態は深刻である。音楽は一度限りのものだから、同じ時間を再現することもできない。だとすると、一度一度の演奏が、演奏家にも聞き手にも、時間という制約を意識させ、限られた時間を共有することの大切さを思い知らせる。この時間は二度と味わえないのだという共通意識が、そこに無意識に存在する。音楽の、いや命の儚さを潜在意識の中に持ちながら。

第5番「皇帝」の、これまで何度聞いたかわからない有名曲を、第1番以上に堂々と、溌剌と演奏する。華麗で、幸福感に満ち、淋しく、そして儚い。私自身、一体何度実演でこのわずか5曲の名曲を聴いたことがあっただろうか。第1番、第3番ではわずかに一回、有名な第4番や「皇帝」でも片手の指が余る。第2番に至っては、おそらくゼロ。そして、今後もこの調子だと、あと一回がせいぜい・・・。

「皇帝」のまるで天国にいるような第2楽章から、一気に突入する第3楽章への移行部分は、圧巻であった。シフのピアノは、確かに若い頃に比べると少し衰えているようにみえるものの、その分円熟した雰囲気があった。どの音もおろそかにせず、綺麗に聞こえてくる。ハンガリー人特有の、クリアで情に溺れないモダン性は、ディスクで聞く演奏と同じだった。 もしかしたら私は、あまりにシューベルトの印象が強いでいか、ベートーヴェンにもシューベルトのような、一瞬の内面を垣間見せるメロディーの変化を意識して聞いていたのかも知れない。

そう、私がシフに親しむきっかけとなったのは、デッカから発売されていたシューベルトだった。その演奏は今でも色あせないばかりか、未完成作品の多い作品を含め、ほぼすべての曲を網羅した全集は同曲のスタンダードとして広く聞かれている。

「皇帝」の第3楽章にける変奏の妙は、ゆったりと、そしてたっぷりと私を魅了した。これまで聞いてきたベルナルト・ハイティンクの指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、ドレスデンのオーケストラのいぶし銀の響きと、テルデックの優秀録音によって、限りない魅力を湛え、名盤のひしめく同曲中のディスクの中では、最高位にランクされるものだが、たとえそれがシフ最高時の演奏を記録したものであったとしても、今日、コンサートホールで聞いたシフの生演奏は、私に様々なことを考えさせた。それは同じように年を重ねて行く私も、また音楽を楽しんで行きたいと思う共感にも似たものだった。

「皇帝」が終わっても冷めやらぬ拍手に応えて、何曲ものアンコールが演奏された。ここにその曲を順に書いていくが、驚くべきことはその最初が、何と協奏曲第4番ト長調の後半、すなわち第2、3楽章だったことだ。そしておそらくその演奏が、全体の中での白眉だった。第2楽章の例えようもないような静寂と緊張。その一音一音に神経が行き届いている。オーケストラとの阿吽の呼吸によって、この奇跡的なトランジションは、最高潮に達した。まるでそうと意図したように、コンサートの全体の最高点がそこにあった。なだれ込むような第3楽章。けれども老巨匠は今や、一音一音を大切にしながら悠然と音符を進めてゆく。

アンコールの2番目はピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調「テレーゼ」全曲だった!この10分程度の曲を、聴衆は聞き入った。何かとても個人的なプレゼントをもらったような時間だった。何度も舞台に呼び戻され、オーケストラが去っても消えない拍手にひとり舞台に現れる。こういうシーンは、常にあるものではない。コンサートの模様はNHKによって録画され、来年にはオンエアされると掲示されていた。

会場を出るとビルの間を秋の風が吹いていた。早くもクリスマスツリーが広場に飾られ、そのそばのパブで、しばし友人とのひとときを過ごした。たっぷりと時間を過ごしたコンサートだったが、その音色のように湿度は低く、さわやかなコンサートだった。

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