カラヤン、アバドに続く1989年のニューイヤーコンサートに、何とあのカルロス・クライバーが起用されると発表されたのは、センセーショナルなニュースだった。カルロス・クライバーは1970年代に、ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲を突如として録音し、そのディスクは歴史的な評価を受けている。当時はまだデビューしたての若い指揮者で、その後も数多くの録音がリリースされるのではと思いきや、レパートリーはごく少数の名曲に限定され、それらの作品でさえ実際に指揮台に立って演奏することは極めて稀だった。指揮をすれば、たちまち大名演となることは確実で、刹那的とさえ思われるほどの熱狂と一切の妥協を許さない完璧な躍動が、そこには現れるのだった。
そんなクライバーの、まさに十指にも収まるほどのレパートリーの中に、ミュンヘンで大評判だった「こうもり」がある。「トリスタンとイゾルデ」や「オテロ」、「ラ・ボエーム」といった超名作だけが並ぶそのレパートリーの中にあって、オペレッタの名曲が登場するのである。だが彼のシュトラウスの演奏はそれだけで、その他にワルツを指揮したという話は聞かない。父親のエーリヒには、ウィンナ・ワルツの演奏が残っているが、その一家とともに南米に逃れたカルロスは、国籍こそオーストリアだったもののウィーンゆかりの指揮者というわけでもなかった。
お正月の全世界が注目するコンサートに、本当に出演してくれるのだろうか、というのが熱心なファンだけでなく、関係者一同の心配事で、それはリハーサルを終えてもなお、現実的な問題として存在していた。なにせ数々の「前科」がある。ウィーン・フィルとも「田園」を指揮する予定だった定期演奏会の直前にホテルから逃亡した事件は、新聞の表紙を飾る大事件として記憶も生々しかったのである。そんな指揮者に再度アプローチをかけたのだから、ウィーン・フィルの情熱も大したものである。
昭和天皇の崩御を直前に控えた自粛ムードの中で、昭和64年の元旦を迎えた。NHKはこの年から、前半の第1部のプログラムをFM放送で流すことになった。衛星中継による映像は第2部からで、これは教育テレビ。したがって私を含む熱心なファンは、まず午後7時前にラジオのスイッチを入れる必要があった。本当にクライバーが予定通り指揮台に立つか、それを確認するために、私もFMチューナーにスイッチを入れ、ステレオの前に腰掛けた。冒頭のプログラムは、「加速度円舞曲」だった。リズム処理の巧妙さを感じさせる作品で、クライバーにうってつけの曲目が並ぶ。
コンサートは合間に拍手を挟みながら、淡々と進んだ。「田園ポルカ」、ワルツ「我が家で」、そしてポルカ・マズルカ「とんぼ」が始まった。この演奏を聞いて私は、これままさにあのクレメンス・クラウスの演奏の焼き直しではないかと思った。とにかく聞き惚れているうちに、あっという間に前半最後を飾るプログラム「こうもり」序曲が終わってしまった。「こうもり」の名演奏はバイエルン国立歌劇場管弦楽団となされていて、来日自のコンサートのアンコールでも演奏されている。私も聞いたその表現とまったく同じものを、ウィーン・フィルと演奏している。
このコンサートでも、クライバーはウィーン・フィルと、一時の妥協も許されない完璧な演奏を目指していた。それがニューイヤーコンサートの、お正月のマチネーのややくだけた雰囲気を、緊張と陶酔が渦巻く世界へと一変させた。さて映像で見るコンサートは、一体どんなものになるのか。クライバーの流麗な指揮姿を早く見てみたいと思った。
第2部になって、テレビ映像に映し出されたのは紛れもなくクライバーのエレガントな指揮姿だった。後半の最初のプログラム、ワルツ「芸術家の生涯」をかたずを飲んで見守る。極度の緊張を隠しつつ、オーボエが冒頭のメランコリックなメロディーを奏でる。クラリネットがそれを引き継ぐ。やがて弦がその旋律をなぞる。この時の、集中力をはらみながらもあくまで優雅な音。そして刻まれる3拍子の強弱を若干強めたアクセント。その緊張と弛緩。まさにこれはウィーンの伝統として、かつてクラウスが残した演奏そのものの姿だった。ここには精緻に再現されたワルツの伝統が存在していた。
このようにしてコンサートは進み、ずっと指揮姿に酔いしれたいという思いがしたものの、いつも通りいくつかのバレエ映像も挟まれる。メリハリのある指揮に合わせるため、何かダンサーたちにもその緊張感が伝わってくるような感じがした。それはテレビ映像のスイッチングやウィーン・フィルの楽団員にも感じられ、ポルカ「クラップフェンの森で」で使われるカッコウの鳴き声にまで、それは及んだ。これではニューイヤーコンサートにお馴染みの、おふざけシーンなどが演出される余地などない。その代わり、一気呵成に聴衆を酔わせながら、「騎士パズマンのチャールダーシュ」、「おしゃべりなかわいい口」と進み、アンコールの第1曲、「騎手」までの、ポルカ・シュネルが連続する頃には、会場は歓声の渦に包まれた。
それまでにない陶酔の時間を、できればまた一度味わいたいと誰もが思ったのだろう。何とクライバーは3年後の1992年にも再びニューイヤーコンサートの指揮台に立つのである。だがこれは事前に予定されていたわけではなかった。1992年の指揮者は、かねてからレナード・バーンスタインになる予定だった。しかしバーンスタインは、1990年10月に死去してしまう。エンターテイメント精神溢れるバーンスタインにウィンナ・ワルツが似合うかどうかはともかく、もし実現していたら、これはこれで見ごたえのある演奏家になったことだろう。しかしバーンスタインがいなくなったことで、ウィーン・フィルはクライバーに白羽の矢を立てたのである。1回限りと思われていたクライバーの再登場は、このようにして現実のものとなった。
1992年、2回目のクライバーよによるニューイヤーコンサートの最初の演目は、オットー・ニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」で始まった。1989年のコンサートでは、全曲がシュトラウス兄弟の作品で占められたが、2度目の登場ではわずかにこの曲だけが、シュトラウス作品ではない。しかし、このウィーン・フィル設立者の作品は、このようなコンサートに相応しい。丸で霧の中に立ちのぼるような序奏で始まるこの演奏こそ、私はクライバーによる一連コンサートの中での白眉だったと思っている。うれしいことにこの頃から、NHKは第1部からテレビでの放映をしていた。
2回目での「事件」は、おそらくポルカ「観光列車」でクライバーにラッパを吹かせたことだろう。もともとカルロスには、このような演出に迎合し、自らが道化と化すことにはもっとも縁遠いようなところがある。はにかみ屋であることに加え、ちょっと躁鬱気味のクライバーは、表現される音楽で聴衆を酔わせる演奏の裏で、きわめて醒めた、ニヒルな感覚を漂わせている。このことが露わになったのである。クライバーに何もそこまでやらせなくてもいいのに。私は見ていて痛々しくもあった。
「美しく青きドナウ」の冒頭で、控えめな最低限の「新年のあいさつ」をこなした彼は、通常通りこのオーストリア第2の国歌との言うべきワルツを指揮するのだが、ここではクライバーの独自性は後退し、ウィーン・フィルの時間が訪れた。この曲だけは(とウィーン・フィルの楽団員が思ったかどうか知らないが)、私たち流にやらせていただきますよ、とでも言わんばかりに、この「青きドナウ」は特徴がない。だがそれを含め、クライバーの2回の登場は、このコンサート史上に語り継がれるものだろう。その他の曲では、ポルカ「町と田舎」の風情溢れる演奏と、十八番「雷鳴と稲妻」が心に残る。
あれから30年が経過し、今クライバーのニューイヤーコンサートの演奏を聞くと、確かに稀有の名演奏であると思う一方で、少し冷静に見ている自分に気付く。クラウスや父の演奏スタイルを正確に蘇らせ、その「演出された熱狂」の瞬間は、紛れもなくこの上ない陶酔の時間だった。しかし醒めて見ると、あの気持ちは何だったのだろう。元帥婦人が昔の日々を振り返るかのように、過ぎ去った情熱の日々が懐かしくもありつつ、それは過去の特別な時間だったことにも気付く。思えば、これがクライバーの表現だったのだろう。過ぎ去った時間は巻き戻せない。音楽は時間と共に消えいく。クライバーにとっての誤算は、技術が過去の演奏を記録して再現してしまう時代に生きていたことだ。それによって彼は完璧な「伝説の指揮者」になりそこねた。
しかし我々は、おかげでクライバーの指揮姿を、彼の死後にも映像で楽しむことができる。強いて言えば、1989年のコンサートの方が良かったと思う。ビデオでは1989年、音だけで楽しむなら1992年といった感じである。
【収録曲(1989年)】
1. ヨハン・シュトラウス2世:「加速度円舞曲」作品234
2. ヨハン・シュトラウス2世:「田園のポルカ」作品276
3. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「わが家で」作品361
4. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「とんぼ」作品204
5. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「こうもり」序曲
6. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「芸術家の生活」作品316
7. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「風車」作品57
8. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「ハンガリー万歳!」作品332
9. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「クラップフェンの森で」作品336
10. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「春の声」作品410
11. ピチカート・ポルカ
12. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「騎士パズマン」よりチャルダーシュ
13. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「おしゃべりなかわいい口」作品245
14. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「騎手」作品278
15. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
16. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228
※CDは2枚組。91年を加えた3枚組もある(ソニー)。映像ドイツ・グラモフォンより発売された。
【収録曲(1992年)】
1. ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
2. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「町と田舎」作品322
3. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「オーストリアの村つばめ」作品164
4. ヨーゼフ・シュトラウス:「鍛冶屋のポルカ」作品269
5. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「観光列車」作品281
6. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
7. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「千夜一夜物語」作品346
8. ヨハン・シュトラウス2世:「新ピチカート・ポルカ」作品449
9. ヨハン・シュトラウス2世:「ペルシャ行進曲」作品289
10. ヨハン・シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」作品214
11. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「天体の音楽」作品235
12. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」作品324
13. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「騎手」作品278
14. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
15. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228
※92年のCDは「鍛冶屋のポルカ」、ポルカ「騎手」が省略された。DVD(フィリップス)ではこれらを含むすべての曲目が収録されている。
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