2021年6月29日火曜日

ハイドン:弦楽四重奏曲作品76(第75番ト長調、第76番ニ短調「五度」、第77番ハ長調「皇帝」、第78番変ロ長調「日の出」、第79番ニ長調、第80番変ホ長調)(タカーチ四重奏団)

室内楽曲と交響曲という2つの形式は、ハイドン自身によって確立されたと言っていい。このうち交響曲は、エステルハージ公を始めとする貴族に仕える職業として専有の楽団を指揮して演奏される比較的大きな規模の作品へと発展し、それはハイドンのまさに正職であった。様々な試みのもと、次第に様式を変遷させ、最終的には古典派の交響曲というジャンルを確立したハイドンは、ロンドンへの演奏旅行で不動の名声を確立する。その過程は華々しく、大器晩成型の作曲家の典型である。

一方、当初はディヴェルティメントと呼ばれていた小規模な楽曲は、せいぜい数人の奏者を必要とするだけであり、その用途も非常に限られた個人的なものだったと思われる。このような曲は、正式な依頼によって要請され、大規模な演奏会で披露されて出版されるものではなかった。ハイドン自身もこのような分野の曲を、個人的な依頼によって作曲した。当初はピアノを加えた三重奏曲が中心だったが、次第に弦楽四重奏曲が、これに変わった。そして面白いことに、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、それにチェロからなる弦楽四重奏は、とりもなおさず交響曲のミニチュアのような様相を呈し、いわば交響曲のエッセンスを形作っていると言ってもいい。

ここで私は学者でも音楽家でもないから、弦楽四重奏曲の何たるかについて、縷々語る資格を持たない。従って今回聞くハイドンの有名作品も、まあこれらの曲は一度は触れておかなくてはならない、という程度の義務感と、それに何といっても「ドイツ国歌」として使われるほどに有名な「皇帝」他の曲も聞いてみたい、などといった程度の動機であることを始めに記しておこうと思う。

ホーボーケン番号において77番とされる弦楽四重奏曲作品76の3番は「皇帝」のニックネームで知られるハイドンの、最も有名な弦楽四重奏曲である。なぜならこの曲の第2楽章こそが「ドイツ国歌」だからである。この曲を含め、有名な標題付きの作品「五度」「日の出」はいずれも作品76番として出版された6つの作品(エルデーディ四重奏曲)の一部である。

私はドイツ国歌がオーストリア人によるものだったことに最初は驚いていた。「皇帝」はもともとオーストリアの皇帝、フランツ・ヨーゼフ2世の誕生を祝うために作曲されたものである。そこに歌詞を付け、ドイツ賛歌としての性格を与え、次第にドイツ国歌として成立していく経緯は、ドイツ大使館のホームページなどに詳しく書かれているが、それによれば、ヒトラーの時代と東西に分断された冷戦時代を乗り越え、統一ドイツの国歌として承認されたのはようやく1991年になってからということになっている。

「ハイドンの弦楽四重奏曲は第2楽章が印象に残る」という私の個人的な発見の例にもれず、「皇帝」の第2楽章、すなわち「ドイツ国歌」はとても荘重で格調高い印象を残すカンタービレだが、この曲は第1楽章も印象深い。飾ることなく堂々と正面から対峙している印象は、ハ長調という性格によるものだからだろうか。

しかしハイドンはこの曲を、オーストリアの国歌として作曲した。イギリス滞在中に英国人が自国の国歌を歌うのを耳にしたことから、祖国にも国歌が必要だと感じたからのようだ。そしてめでたくこの曲はオーストリア帝国の国歌となる。しかし現在はこのメロディーがドイツ連邦に引き継がれ(ドイツ人の歌)、オーストリア共和国の国歌はモーツァルトの作品に歌詞を付けたもの(山岳の国、大河の国)となっている。 

第76番「五度」は、第1楽章冒頭の動機が5度の下降を見せ、この主題が曲全体に展開されているからだ。音楽に素人の私は、中学生程度の音楽的知識しか持ち合わせていないため、「5度」を数えることくらいはできるが、それがどういう意味を曲に与えるかについて何かを語ることができない。むしろこの曲の冒頭を聞いて印象的なのは、この曲がめずらしく短調で書かれていることだ。そしてこのメロディーは悲劇的である。ハイドン版「走る悲しみ」といった感さえ漂う。

第2楽章のピチカートを伴うシンコペーションのリズムも何か憂鬱な響きだが、丁度今の梅雨の時期に聞いているからだろうか。第3楽章のメヌエットを聞いているとモーツァルトのト短調交響曲を思い出す(ただし作曲はモーツァルトの方が先である)。そして終楽章も激しくリズムがほとばしり出る。5度という下降モチーフが全体に展開されることによって激情的でシビアな印象を残す。短調だが印象的でまとまりあよく、何度も聞きたくなる曲だと感じた。

第63番「日の出」は一転して伸びやかで明るく、優美な曲である。このようなフレッシュなイメージから「日の出」というあだ名が付けられているが、確かにメロディアスで長音が多い印象を残す。これは細かく音符を刻む「五度」とは対照的である。太陽が東の空に昇ってゆく日の出がそうであるように、これは次第にメロディーが隣の音へと移ってゆく。つまり1度か2度の変化。ハイドンは同じ作品番号の中に、性格の正反対な曲を敢えて揃えた。

梅雨空の続く毎日に美しい日の出は期待できない。今日も台風が近づいているせいか、朝から雨が降り出しそうな陽気である。それでも朝5時半に起きて、バルコニーで熱い紅茶をすすりながらハイドンを聞いている。心が落ち着く時間である。

だがハイドンの多くの作品がそうであるように、安易に付けられたニックネームに騙されてはいけない。第2楽章アダージョの深く沈むような音楽は、まるで深夜の散歩道のような静けさである。またこれに続く第3楽章は、一転して明るいメヌエットだが聞いていてさほど面白くはない。第4楽章では新しい音楽への営みが感じられるのが新鮮ではある。そしてコーダは滅法速い。

作品76番の他の3曲は、いずれもニックネームを持たない曲であるがゆえにか、あまり聞く機会がないのが実情である(ただし第79番は「ラルゴ」と呼ばれる時がある)。タカーチ四重奏団によって録音された目を見張るような名演奏のCD2枚組には、この他の3曲も録音されている。そして標題の付いていない曲こそ、リスナーが余計な先入観を排して自由に聞くことのできる作品でもある。

第1番目の作品である第75番ト長調は、名曲ぞろいの全6曲の最初にあって。これから楽しい弦楽四重奏曲の旅に出るのに相応しい明るい雰囲気を持っている。もっそもソナタ形式の第1楽章が終わると、長いアダージョの第2楽章が始まる。ハイドンは緩徐楽章を(交響曲でもそうであったように)しばしば第3楽章に配置したが、(やはり交響曲でそうだったように)様式を確立してきた後期には第2楽章に固定し、第3楽章のメヌエットが次第にスケルツォの様相を帯びてくる。

この第75番もその例にもれず、第3楽章はスタッカートを多用したスケルツォである。ただし優雅なトリオが中間部に配置され、ピチカートが印象的。一方、静かに始まる第4楽章は悲劇的なト短調の性格を表しているのが印象的である。この1曲だけで当時の弦楽四重奏曲の最先端を見る思いがする。そしてこれは続く「五度」(ニ短調)の前奏曲のようでもある。

表題の付いた名曲を3つ経ての第79番ニ長調は、前作「日の出」同様に伸びやかな曲で始まるが、途中から速い部分もいきなり出現するあたり、交響曲にはない自由さが感じられるのが面白い。ソナタ形式によらず主題を様々に変奏していく様が面白い。その第2楽章は長大なラルゴである。伸びやかでありながら荘重な雰囲気は、卒業式に似合うのではないか、とメモしたことがあった。そしてメヌエットとはいえもはやスケルツォというのが相応しい前衛的な第3楽章を経て演奏される滅法速い終楽章の楽しさと言ったら!

ハイドンの弦楽四重奏曲の集大成とも言うべき「エルデーディ四重奏」の最後の作品である第80番は、非常に自由な作品である。第2楽章は、前作と同様のゆったりとしたメロディーで始まるが、「ファンタジア」と記されている。そして第4楽章ともなると、非常に高速ながら自由に羽ばたくような曲想は、弦楽四重奏曲の当時の可能性を試しているようなところがあり、この分野ではもうやりつくしたというハイドンの気持ちが伝わって来るようだ。実際、このあとに作曲されたのは「ロブコヴィッツ四重奏曲」と言われる作品77番の2曲(及び未完とされる第103番)のみであり、もう頃にはモーツァルトは世におらず、ベートーヴェンがハイドンの弟子としてウィーンの音楽界を席巻していた時期となる。

タカーチ四重奏団はハンガリーのリスト音楽院の学生によって結成されたアメリカの四重奏団である。デッカの録音の効果もあって、透明で新鮮な音楽はベートーヴェンのクァルテットに新境地を示した感がある。ハイドンについても同じことが言えると思い、このCD2枚組をかなり昔に購入していたのだが、取り出して聞くのを忘れていた。今回、コダーイ四重奏団の演奏(これも悪くない)の演奏を聞いていたのだが、すっかり忘れていたタカーチの演奏を思い出し、急遽この録音を聞いてみたところ、これがやはり決定的な演奏であるように思えてくるのだった。

録音は1980年代の後半で、いまとなってはかなり古い部類に入るが、古楽器奏法が台頭し始めていた頃にあたり、その影響が室内楽曲にも当然及ぶ。そこでキラ星の如く登場したのがこの四重奏団だった。私などは室内楽の面白さを初めて認識したようなところがある。だが当時としてはあまりに前衛的だったということだろうか、タカーチ四重奏団によるハイドンは、この2枚組しか見当たらない。

その演奏は若々しく生命力に溢れ、あらゆる部分にまで注意と表現が行き届き、四重奏の分野でもハイドンの魅力がまだ蘇生可能であることを証明している。思わず襟を正したくなるような演奏は、日曜日の朝に聞くのに相応しい。

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