2021年8月8日日曜日

東京フィルハーモニー交響楽団演奏会(2021年8月6日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:アンドレア・バッティストーニ)

 ツイッターでフォローしている音楽ライターが、川崎で毎年夏に開催される「フェスタサマーミューザKAWASAKI」での音楽会について、好評のコメントを寄せている。ということは、このコロナ禍においても演奏会が開催されているということである。考えてみると神奈川県は緊急事態宣言も出ておらず(7月末時点)、中止になる理由はない。そういうわけで私も久しぶりにコンサートに出かけようとプログラムを眺めてみたら、何とバッティストーニ指揮の東フィルがまだ沢山あまっているではないか!

東フィルのコンサートも、首席指揮者として大人気のバッティストーニが指揮する公演は、いつも売切れ。私も過去に何度か行こうとしてきたが、直前だと満員御礼のことが多く、未だに一度も聞いたことがない。そうこうしているうちにコロナが感染爆発を起こし、コンサートそのものが中止になってしまったのが昨年である。東フィルに限らず、辛うじて観客数を抑え何とか公演にこぎつけた場合でも、外国からの指揮者を迎えることはできない日々が続いていた。

それに加えて、私を襲ったのが腰痛とそれに続く長い闘病の始まりであった。もうかれこれ1年近くに及び、私の下半身はいまだに言うことを聞かず、しびれと痛みが時おり襲ってくる。このような状態で2時間もの間、会場の椅子に座る自信もなければ、そもそも会場に足を運ぶだけの力も失せてしまった。クラシック・コンサートの会場では、歩くのも苦労するような人々をいつも大勢見かけるが、彼らはそうやってここへ来て座っているのだろうか、といつも思っていた。ところがその仲間入りを、私も果たしてしまった。

どうせ世の中は不要不急の外出をしないよう呼びかけられている。たとえ外出に成功したとしても、感染の恐怖に怯えながら常時マスクを装着しなければならず、酷暑の中では不快で不自由極まりない。そういうわけでわずかに開催される演奏会にも、出かけたくなる精神状態ではなかったのである。おそらく同様の状況に置かれてる人は多いと推測される。だからチケットが結構余っている。これでは演奏家の方々も可哀そうである。

コロナ禍が襲いつつあった昨年2月の新国立劇場で見た歌劇「セヴィリャの理髪師」を最後に、生の演奏会から遠ざかること1年余り。しかしここへ来てやっとのことで、腰痛は少し軽くなり、我慢をすれば外出もできるように思えてきた。そもそも人間は、旅行をしたり芸術に触れることによって人間性を回復し、家族や友人との交流によって生活を営む存在である。音楽に接することは、生活に必要な行為であると言える。演奏会への参加は、決して不要不急なものではないのである。

そういうわけで私は久方ぶりにチケットを購入し、8月6日の演奏会に出かけた。プログラムはオール・イタリアン。ヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲で始まり、レスピーギの珍しい組曲「シバの女王ベルキス」と続く。賑やかな演奏会になりそうだ、との大方の予想通り、カラフルなサウンドが会場を満たすと、実演で聞く音楽の高揚感が1年ぶりに私の体に押し寄せてきた。

ドリンクの販売もない休憩時間を経て後半には、世界を代表するハーピスト、吉野直子が登場。今日のプログラムの目玉であるニーノ・ロータの珍しいハープ協奏曲を披露した。

ロータは映画音楽で有名な作曲家だが、実際には複数の交響曲を含むクラシック音楽を多数作曲しており、それらの音楽が死後に演奏されることが多くなっている。ハープを独奏楽器とする曲は大変珍しいが、この曲も定番のフルートとハープの組合せだけでなく、トロンボーンやホルンなどといった楽器との二重奏などもあって、この音色の溶け合いが大変新鮮だった。ハープの清涼感あるバロック的な響きが、現代音楽の要素の中に入りこむ野心的作品に思えたが、音楽としての充実度はどうか、と問われるとちょっと答えに困惑する。

吉野直子を聞くのは初めてだった。彼女の弾くハープのディスクは、アーノンクールによるモーツァルトの定番「フルートとハープのための協奏曲」を私も愛聴しているのは、先に書いた通りである。若い頃から頭角を現し、数々の演奏家と共演を重ねている彼女はロンドン生まれだそうだが、私と一つ違いという年齢もあって親近感が沸く。そして音楽学校を出ておらず、国際基督教大学の出身であることも最近知った。

彼女は鳴り止まない拍手に応え、アンコールに小品を披露したが、これはフランスのハープ奏者だったトゥルニエの演奏会用練習曲「朝に」という曲であることが、ミューザ川崎シンフォニーホールのWebサイトに掲載されている。今日のプログラムは編成が大きく、オーケストラの中に2台のハープが置かれていた。だが彼女はこれとは別のハープを演奏した。曲の中で聞こえてくると世界が一瞬にしてモードが変わり、丸で蝶が舞うような感覚にとらわれるハープも、独奏楽器として使われると、長大な時間、重い楽器をずっと弾いていなければならないのは大変タフなことだと思わずにはいられなかった。

プログラムの最後を飾るレスピーギの交響詩「ローマの松」については、もう何も言うことはないだろう。極採色の大編成はオルガンとその左右に計7名もの金管奏者を配するもので、私の知っている音楽の中でもっとも大音量だと思う曲である。キラキラ光る鮮やかな冒頭とに挟まれて、鳥が鳴く静寂な中間部も聞きものである。私のバッティストーニに対する感想は、意外にも落ち着いたオーソドックスな指揮だということ。だから安心して聞ける指揮者だと思った。その分興奮に満ちた音楽という前評判も、私にはどこか醒めたものに感じられた。

楽団員が引き上げても指揮者のみがステージに呼び出されるのは珍しい光景である。来日した巨匠の最後の演奏会ではよく見るが、それが何と実現された。舞台に再び登場したバッティストーニは、惜しみない拍手に応えていたが、それは彼の日本での人気ぶりを表していた。

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