2021年9月4日土曜日

ハイドン:弦楽四重奏曲作品20(第31番変ホ長調、第32番ハ長調、第33番ト短調、第34番ニ長調、第35番へ短調、第36番イ長調)(モザイク四重奏団)

子育ても一段落した中年以降の妻子ある男性とって、家庭内の居場所が徐々に失われて行くことは世界共通の極めて深刻な悩みである。家の大きさや経済状況もその傾向に影響を及ぼす要素ではあるが、本質的な部分は変わらない。無観客となった東京オリンピックのメイン会場に、放送局が特設スタジオを設置しているが、その画面から見える会場周辺をうろつくうろつく人々にも、そのような中年男性の姿が映っている。たいていは一人で写真などを撮っていたりしている。

盛夏となった今年の東京も、青空に雲が沸き、なかなかいい陽気である。五輪選手の中には東京の暑さを訴える人がいるようだが、大阪生まれの私にとっては今年の東京の夏は、理想的な夏である。晴れて風が吹き、日陰に入るとさわやか。これが凪を伴う瀬戸内地方へ行くと、こうはいかない。だから日曜の朝、、家族はまだクーラーなどを書けて朝寝坊をしているが、ひとり家を飛び出して近くのベンチで音楽などを聴いている。もちろんあちこちに同類の友がいる。

自分も腰を痛めて満足に歩けないため、家に籠っていたが、それも限界である。かといってコロナ禍では家族に外出を勧めるわけにもいかない。実家などへ長期に帰省することも憚れる。学校や休みとなる夏だが、観光に出向くこともできず、お酒も飲めない飲食店でゆっくりと過ごすわけにもいかない。コンサートも中止、スポーツ観戦も無観客、展覧会は過密状態が気になり、乗り物への乗車も怖い。もうこういう状態が1年以上続いている。同じ境遇なのか妻は機嫌が終始悪く、子供は引きこもってしまった。私も引きこもってしまいたいが、その場所がない。そして昨年来の腰痛で、外出もできない。いや、そもそも不要不急の外出は、腰の状態にかかわらずすべきでないのだ。持病のある私にとって、感染は命取りになるからだ。ワクチン接種は無事終えたが、重症化を防いでくれるだけで、デルタ株などあまり感染抑止に効果がないらしい。

そんな蒸し暑い休日の朝、人気の少ない家の近くの公園で、ひとり静かに音楽を聞くことができるのは、せめてもの慰めである。そして私の愛するハイドンの弦楽四重奏曲を、今日も聞いている。ボートの講習会に集まった小学生たちが、親と一緒に運河に船を運んでいる。今日聞いているのは、ハイドンがいわゆる「疾風怒涛(シュトゥルム・ウント・ドランク)」と呼ばれた時期に作曲した「太陽弦楽四重奏曲(作品20の6曲)である。「太陽」というあだ名がついたのは、出版された楽譜の表紙に太陽が印刷されていたからだそうだが、なるほどこの夏の暑い日の朝に聞くのに相応しい名前だということだろうか。

作品20の6曲の特長はいくつかあるが、短調で書かれた作品があること(第3番ト短調、第5番へ短調)、そして終楽章にフーガが多用されていることである(第2番ハ長調、第5番へ短調、第6番イ長調)。この作品は、ハイドンが交響曲とともに探求してきた弦楽四重奏曲の、いわば転換点となる作品とされている。ここで様式が確立されたのだそうだ。だから外せない、と私はいつか、モザイク四重奏団の演奏する2枚組のCDを購入していた。購入したのはいいのだが、少し聞いただけで棚に戻してしまい、以後、まとめて聞いた記憶がないのである。ハイドンの弦楽四重奏曲の最後の方の作品を聞いた後で、どうしてまたこのような古い作品を、と思わないでもないのだが、こういった理由で取り上げることにした。もちろん私の朝の散歩の慰めに聞いたことも理由ではあるのだが。

さてCDではまず第1番(第31番)変ホ長調から始まる。疾風怒濤の時期の作品ながら、上品で落ち着いた開始の音楽でほっとするのだが、この第1楽章が滅法長い。10分近くあるのだが、後期の作品を聞いて来たので冗長であるような気がしてならない。第2楽章は少し短いが、ここはメヌエット。そして第3楽章はどうも冴えない曲がだらだらと続く。どうも自分の心理状態を反映しているようで、あまり気分が良くない。

続く収録作品は第5番(第32番)へ短調である。短調であることも珍しいが、へ短調というのも聞いたことがあまりない。そしてそのほの暗い陰鬱なメロディーは、私を再び悲しい気分にさせるのに時間はかからなかった。むしろ今の気分に合っているような気がする。だからなのか、10分も続くが聞いていられるのが不思議である。第2楽章メヌエットを経て始まる第3楽章アダージョは、親しみやすい慰めの音楽にほっとさせられる。そして終楽章の短いフーガは、再び気持ちが現実のものとなってしずかに押し寄せる。それでも重くなり過ぎないこの曲は、なかなか特徴的でいい曲だと思った。

2枚組の1枚目最後は、第6番(第36番)イ長調である。この曲はその調性からか、とても明るく快活である。そして第2楽章アダージョ、カンタービレは、何とも心に淡々と染み込んでいく素敵な曲である。メヌエットを経てフーガ静かに始まる。全体的にまとまりがいい曲である。

2枚目のCDは第2番(第32番)ハ長調で始まる。ここでは第1楽章冒頭のチェロが印象的である。夏の風に揺れる青々した木々を眺めている。静かで落ち着く時間である。そして淡々と続いて行くフーガは落ち着いた風情を見せ、明るさの中身も一定の重みが感じられる。ところが第2楽章は悲痛なモチーフで始まる。続く劇的な音域の激しい上下は、心を突き刺すような激しさで聞く者を驚かせる。ところが中間部に入ると、まるで楽章が変わったように一点、落ち着いた優しいメロディーが聞こえてくる。痛みにもがいていた重症患者が、心地よい眠りに入った時のようなこの落差は、まるでロマン派の音楽のようだ。気が付くと第3楽章の三拍子となっており、第4楽章では再び劇的な音楽が展開されて終わる。この曲は若きハイドンの野心的な試みの曲だと思った。

第4番(第34番)ニ長調もまたハイドンの表現の幅を追求した作品のように思える。第2楽章のどこか懐古的なメロディーは、モザイク四重奏団のモダンで明るい音色によって中和されているとはいえ、懐かしさを覚える。第3楽章は楽し気で、第4楽章は速くて明るく陽気である。第3番(第33番)ト短調は、短調の曲に相応しく、聞いていたあまり楽しくない。第2楽章に陰鬱なメヌエットが置かれており、長い第3楽章の静かなメロディーは、時々途切れるのが新鮮だ。これは第4楽章でも同様である。

ハイドンの音楽の魅力は、古典派の様式を映し出す理性の枠組みは維持しつつも、それを意図的に逸脱して崩す仕組みを随所に散りばめながら、決してその一線を越えない情緒が垣間見えるところであろうか。この交響曲でもさんざんつき合わされた試みが、四重奏曲の分野でも同様に行われている。ひとつひとつの曲は、交響曲のほうが聞いていて楽しいが、かといって浅番の作品をわざわざ取り上げて聞くこともないのが実情である。それにくらべると弦楽四重奏曲の方が、BGM代わりにずっと聞いていられる。仕事の邪魔をしないし、旅行に持って行って車窓風景を眺めながら聞くのにも有用である。この際の欠点は、今どの曲のどこを聞いているのかもよくわからない状態になってしまうことなのだが、まあこれは仕方のないことだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...