2022年4月17日日曜日

ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11(P:チョ・ソンジン、ジャナンドレア・ノセダ指揮ロンドン交響楽団、P:マルタ・アルゲリッチ、クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団)

我が国ではまだ、クラシック音楽というと何か高尚なもののように思われていて、これはヨーロッパや米国でも実は同様なのだが、ある上流の家庭に呼ばれて応接室に通され、そこに設置されたステレオ装置にレコードなどをかけて音楽を聞くことになると、いつのまにかカステラとレモン・ティーなどが運ばれてくるといったイメージがある。今ではドラマのシーンくらいでしかお目にかかれないが、そこで何を聞いているかと言えば、マーラーやバルトークではなく、ショパンかモーツァルトなのである。

ショパンの作品はほとんどがピアノ曲で、それも大半がサロンなどで演奏された独奏曲である。そのいずれもが名曲で、ワルツ、ノクターン、ポロネーズ、エチュード、ソナタ、スケルツォ、プレリュードと限りがないのだが、そのショパンには2つのピアノ協奏曲が存在している。とりわけ第1番(の方が後に作曲された)は有名で、5年に一度開かれるショパン・コンクールの最終予選では、このピアノ協奏曲が使用される。私も5年に一度のペースでこの曲を聞くことになっている。

このショパンのピアノ協奏曲第1番は、演歌「北の宿から」に酷似した第1楽章の主題から最後まで、全編カステラと紅茶の香りがする曲である。そして多くの人にとってそれはまた、青春のほろ苦い思い出と共にあるようなところがあって、甘く切ない記憶がどういうわけか蘇り、しばし時のたつのも忘れてしまう。初恋の経験、将来に道を見いだせないでいる青年の、どうしようもない焦燥感。その焦りを感じつつも、有り余る時間と自由を持て余す日常の生活。この曲がイメージするものが、これほど明瞭に迫って来る曲を私は他に知らない(いや、これは嘘である。私の場合、メンデルスゾーンの無言歌集にこそ、ショパン以上に若き日の哀しみと切なさを感じる)。

私が最初にこの曲を聞き、そして今でもベストと思う演奏は、第7回目のショパン・コンクール(1965年)の覇者、マルタ・アルゲリッチによるものである。ここで伴奏にはクラウディオ・アバドが起用され(当時35歳)、ロンドン交響楽団を指揮している。これはコンクールの3年後のことで、カップリングにはリストのピアノ協奏曲第1番だった(ドイツ・グラモフォン)。

アルゲリッチの1回前のコンクール(1960年)ではポリーニが、1回後(1970年)ではアメリカ人のオールソンが、それぞれ第1位に輝いている(この時の第2位は、内田光子だった)。ポリーニの頃から、晴れてコンクールの優勝者となったあかつきには、その直後にメジャー・レーベルによる録音が行われることが多い。そこで起用されるのも比較的若手の実力派指揮者と決まっている。これとは別に、コンクールでの実況録音もリリースされるなど、第1位に輝いたピアニストには華々しい栄誉が待っていると言って良い。アルゲリッチの場合も、まさにショパン・コンクールによって世界に知られ、その代表的なレコードのひとつがこのアバドとのピアノ協奏曲第1番だったと思う。我が家にも白黒写真のジャケットの、このLPレコードが置いてあった。

アルゲリッチによるショパンのピアノ協奏曲の演奏は、テンポを比較的早めにとり、時に揺らしながらスリリングに進む近代的なもので、古色蒼然としたショパンのイメージを鮮やかに打ち破った感のあるものだったのではないかと思うのだが、それは今聞いても実に新鮮で、もしかするとこういう演奏をされてしまった以上、この後に続くピアニストは、この少し出来損ないの感もある曲をこれ以上にどう処理していいのか、大いに悩むところとなっていったのではないかと思う。実際、10年後の1975年に優勝したポーランド人のツィメルマンを除けば、私の気を引いた演奏は6年前にチョ・ソンジンまでなかったというのが正直なところである。

第1番の第1楽章は長い。手元のアルゲリッチの演奏では19分ある。この第1楽章は長いオーケストラのみの演奏に導かれる古典的な手法が見られ、ピアノが登場する場で少し時間がかかる。ピアノが決然と弾き始める最初の部分が、これほどこの曲のイメージを決定するところはないと思う。従って、ここはピアニストの真骨頂である。

以降は流れるように進んでいき、甘く切ないメロディーが延々と続くのだが、これは続く第2楽章に比べるとまだ序の口である。どんな演奏で聞いてもピアノの魅力を感じないものはなく、あらためてショパンのピアノはいいな、と思ってしまう。長いが聞き惚れている間に終わってしまう第1楽章に続いて、第2楽章ロマンスは、もっと魅力が多く深い。

夜の静寂を歩くような孤独感にそっと寄り添うピアノのやさしさと包み込むのは、満点に輝く星の煌めきである。恋多きショパンの心情がそのまま音楽になったようなこの第2楽章に、胸を締め付けられない聞き手がいるのだろうか。若干20歳のショパンは、この曲を書いた後に祖国を出てパリに向かう。祖国への思いが、片思いの記憶と重なる。だからこの曲は中年以降に聞くべき若き日への憧憬に満ちている。

様々に装飾音を重ねながら、ピアノの詩人はピアノの魅力を伝えて止まない。オーケストラはここでは丁度いい具合に脇役に徹している。中間部で立ち止まるのような部分を頂点にして、ロンド形式による第3楽章のコーダまでが後半である。後半でもピアノの魅力が満載で、ここにはショパンにしか書けなかったピアノ協奏曲というものが確かに存在している。

韓国人のチョ・ソンジンによる演奏は、アルゲリッチとは対極的な演奏ではないかと思う。反論を覚悟で言えば、アルゲリッチが男性的であるのに対し、チョは女性的である。アルゲリッチは決然と吹っ切れたように先に行くかと思えば、どっぷりと溜を打つようなところもある。客観的にこの曲をイメージして、女々しく表現することを避けている。つまり、これは女性的に男性化した演奏である。

一方のチョの演奏は、男性的に女性化している、とでも言おうか。男性にしか表現できないやさしさが横溢している。そっと春風が頬を撫でるようなデリカシーに、女々しいというのではなく、男性的純粋さを感じる。言い換えれば、アルゲリッチの男勝りな表現は、女性にしかできない男性的アプローチであり、チョの一見女性的とも思える表現は、実は男性にしか表現できない繊細さと思いやりに溢れている。つまりその表面的な表情とは異なり、アルゲリッチは女性ピアニストの側面であり、チョは男性ピアニストにしかできない表現の側面を大いに持っている。

私は男性であると同時に、アジア人でもあるので、チョの演奏にどちらかといえば憑かれる。それまで第1位に評価してきたアルゲリッチによるこの曲の演奏は、若き韓国の若者によって先端が開かれたと言って良い。アルゲリッチの演奏から半世紀が経過して、このような演奏が登場したことに驚いた。ショパンのこの曲の表現の幅が、また広がったのである。

チョ・ソンジンは1994年生まれの韓国の若者だが、珍しいことにほとんど韓国で教育を受けたようである。イタリア人の指揮者、ジャナンドレア・ノセダの真面目な好サポートを得て、輪郭の明確な音楽に仕上がっている点が、これほど繊細な表現をしながらも力強さを失わず、理性的なものを感じる。私はまだ実演を聞いたことはないのだが、リリースされるショパンやドビュッシーの演奏もいいし、ビデオで見るラフマニノフのコンチェルトも見ごたえがある。人気があり過ぎてチケットが取りにくいが、リサイタルでもコンサートでも、是非聞いてみたい音楽家である。

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