2022年5月1日日曜日

バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会(2022年4月17日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

復活祭の前日にJ. S. バッハの不朽の名作「マタイ受難曲」を、我が国を代表する古楽団体バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)で聞いた(指揮:鈴木雅明)。ミューザ川崎シンフォニーホールの舞台の左右に2つのオーケストラが分れ、その背後にソリストを含む合唱団が配置されている。正面にはチェンバロ、その左右に通奏低音を担う楽器群、奥にオルガンが陣取る。大きなホールながら客席はほぼ満員で、次第にコロナ禍の非日常が薄れつつあることを実感する。3時間余りに及ぶ大作を、こんなに多くの人が心待ちにしていたのか、と思うと胸が高まる。マチネとしては少し遅い16時開演。終演は19時過ぎとアナウンスされている。

ここのところの関東地方は、曇りがちで雨が降る日も多く、その前は夏を思わせる暑い日が続いたので、この時期特有の季節の変わり目の神経質な陽気である。それでも人出は多く、いつもながら川崎駅前の混雑状況には驚かされる。これは、渋谷でも池袋でも横浜でも、コンサートホールのある都市は同様である。その中を、深遠なるバッハを聞きに行く。もっともバッハには10人もの子供がいて、家の中は常に騒々しかったと推測できる。バッハはそのような状況でカンタータを書き、オルガンを弾いた。おそらく現代と違うのは、街中で騒音が溢れていなかったことだろう。演奏家でなければ、教会の中でしか音楽を聞くことはできなかったからだ。

「マタイ受難曲」については多くの文献や書物で紹介されているが、ごく簡単に言えばキリストの受難の物語で、福音史家(エヴァンゲリスト)が物語の進行を語り、福音書に基づく様々なエピソードが音楽によって表現されている。第1部(前半)は過越しの祭りでの最後の晩餐のシーン。ユダによる裏切りによってイエスは予言通り捕えらえる(約70分)。第2部はイエスの尋問とペテロの否認、そして十字架にかけられたイエスの苦しみと復活に至る物語である(約100分)。

バッハ・コレギウム・ジャパンは「マタイ受難曲」を毎年この時期(復活祭の頃)に演奏しており、その回数は100回近くに及ぶそうだ。そのことを含め、「マタイ受難曲」の聞きどころをを鈴木自らが解説した事前の講座の模様を、音楽評論家の加藤浩子が報告するミューザ川崎シンフォニーホールのオフィシャル・ブログが、この曲に対する鈴木の考え方を知る上で大変役に立つ(https://www.kawasaki-sym-hall.jp/blog/?p=14717)。

それによれば、バッハがこの曲を書いた時代には、それまで神格化されていたイエスが、「苦しみ」を持つ一人の人間としての性質に焦点が当てらていること、それを表現するテクストと音楽における「三重構造」が随所に見られる、ということが特徴であるとのことである。詳細はここでは書かないが、「マタイ受難曲」における発見は、多くの音楽家や聞き手の興味の対象であり、その深さは限りなく大きい。私のような一音楽愛好家にはなかなかわかるものではないのだが、それでも「マタイ受難曲」は聞いていて面白い。それなりの発見があるからだ。

「苦しみ」を抱くイエスは、舞台ではバス(加耒徹)によって気高く歌われる。イエスが歌うシーンは、すぐにわかるように工夫されている。弦楽器や通奏低音が、そうとわかる和音を奏でるからだ。これは絵画における威光の音楽版と考えることができる。イエスが何かを語る時、常にこの和音が鳴っている。それにしても加耒の歌うイエスの、気品と威厳を同時に持ち合わせる格調高さは、群を抜いていた。これほどピタリと役にはまった声はないとさえ思った。

一方物語の進行をつかさどるのはテノールのエヴァンゲリスト(トーマス・ホップス)である。彼は加耒とはまた違った声の響きで、こちらは淡々と物語の進行を歌う。鈴木はその「語り」の導入の部分でさえ、細かく指揮してオルガンとの導入部分の一致が乱れないようにしていた。音楽は弛緩なく淡々と進み、舞台には合唱に混じったソリストが舞台前面やオルガンの左右に行ったり来たり。その様子を見ているだけでも、次はどんなシーンになるのかと興味が沸く。視覚的にも工夫された演出だったが、それも音楽の完璧とも言える緊張の持続があったからだろう。歌も楽器もみな世界クラスの巧さだが、しいてあと一人独唱を挙げるとすれば、私の場合、アルトのパートを歌ったペンノ・シャハトナー(カウンター・テナー)だろう。

BCJの器楽ソリストについては、もう何も言うことはない。ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー、オーボエ、オルガンなどみな我が国を代表する名手揃いである。その中でも指揮者の正面に置かれたチェンバロを、息子の鈴木優人が弾いたことは驚きだった。そのことは会場の張り紙によって知らされ、ブックレットに記載はなかったので、急遽決まったことなのかもしれない。鈴木優人もいまや我が国を代表する指揮者として活動が目覚ましいが、大学生の頃からBCJのチェンバロを務めていたから、手慣れたものである。音楽が始めるとゆったりと音符に身を沈ませ、体を左右に揺らした。これは他の奏者も同様だった。長い「マタイ受難曲」への船出を、このようにして会場に示していた。

今回聞いたのは、ミューザ川崎シンフォニーホールの狭い1階席であった。前から12列目というのはおそらくベストなポジションに近いのではないか。楽器も歌声も直接響く。次から次へとアリア、コラール、そして二重合唱が繰り返され、息つく間もなく音楽が進行する。その熱量に圧倒されっぱなしだった。これほどにまでエネルギーを感じた演奏会はないくらいだった。それだからか、大変疲れた。舞台裏の席の上部には、日本語の字幕も付けれれていたのは大いに嬉しいことだった。

演奏が終わって静寂がしばし続き、そして割れんばかりの拍手となった。何度も舞台に登場した鈴木は、すべての歌い手、器楽奏者を順に立たせ、今回の演奏がとても素晴らしい演奏であったことを印象付けた。ソリストや楽器奏者については、誰が何を歌ったかまではここに書き切れないので、ブックレットのページを張り付けておく。主な配役は次の通りである。

ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、中江早希
アルト:ペンノ・シャハトナー、青木洋也
テノール:トマス・ホップス(エヴァンゲリスト)、櫻田亮
バス:加耒徹(イエス)、渡辺祐介

BCJは「マタイ受難曲」を再録音し、リリースしたそうである。そうでなくともあの膨大なカンタータを毎年取り上げて、とうとう全曲演奏、録音を達成した団体は、世界を見渡してもそう多くはない。しかも演奏の水準は、キリスト教の伝統が希薄な我が国にあって、大変高い。そういう団体が、春には「マタイ受難曲」を、クリスマスにはヘンデルの「メサイア」を毎年取り上げては演奏をしている。私も2001年のクリスマス・イブに「メサイア」を聞いて以来のことだった。「マタイ受難曲」に至っては、かつてたった一度だけ、実演で聞いているのみである(2005年、コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル)。これほどポピュラーな作品であるにも関わらず、CDも立った一組有しているに過ぎない。

これを機に、「マタイ受難曲」のCDでも久しぶりに聞いてみようと思う。


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