2023年10月16日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第754回定期演奏会(2023年10月13日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

終演後の拍手が20分近くも続く演奏会など、そう滅多にあるものではない。来日した世界的オーケストラの演奏会ではない。日フィルの新しい首席指揮者に就任したシンガポール生まれの若手、カーチュン・ウォンの就任披露を兼ねた定期演奏会である。プログラムは、マーラーの交響曲第3番。音楽史における最も長い交響曲の部類に入る休憩なしの1時間40分。ホルン8人、シンバル7台を含むフル・オーケストラに加え、一人の独唱(アルト)、女声合唱団、少年合唱団が加わる。

採算に合わないのだろう。何かの記念となる名目でもない限り本番の演奏に出会うことはない。私は昨年3月京都で、広上淳一の京都市交響楽団の常任指揮者の最後の演奏会にて、この曲を聞くはずだった。そのために藤村美穂子をドイツから招聘し、万全の体制でこの公演が行われるものと思っていた。ところがコロナの影響で合唱団の練習ができなくなり、あえなく別のプログラムに入れ替わってしまったのだった。過去に私がこの曲を実演で聞いたのは、シャルル・デュトワがNHK交響楽団を指揮した2015年の定期公演ただ1回のみ。この時に演奏はもちろん素晴らしかったが、NHKホールというところは広すぎるせいか、集中力が続かないことが多い。前の方で聞いていないと、なかなか印象的なものにならないのだ。

自然の描写を主体とした比較的静かな部分が多く、マーラーの交響曲の中ではもっとも明るい音楽だと思う。多数の楽器が様々に絡み合い、バンダを含む各楽器の音色の微妙な変化を聞き分ける必要がある。なかなかオーケストラ泣かせの曲なのだろうと想像がつく。それが100分も続くわけだから、間違うととてつもなく退屈なものになってしまうだろう。指揮者もよほど自信がないと、この大曲を指揮しきれないのではないか。これが第2番「復活」だと、「終わりよければすべてよし」となるのだが。

日フィルの定期は同じプログラムが2回あって、今回は金曜夜と翌土曜のマチネであった。土曜の演奏会は完売していた。私の聞いた金曜の演奏会もほぼ満席だったから、前評判は極めて良かったのだろう。それも彼が、これまでに積み上げてきたこのオーケストラとの実績によるものだ。

2016年にマーラー国際指揮者コンクールで優勝した若きアジアの俊英は、破竹の勢いで世界中のオーケストラの演奏会に出場しているが、その彼が我が国のオーケストラ演奏を数多くこなしてくれることに喜びを感じている。何でもそのコンクールの前から日本にも住んでいるようであるから、日本での活動に支障はないものと思われる(我が国に住居を持つ有名な外国人は結構多い)。私はコロナ禍に見舞われる少し前、兵庫県の芸術文化センターのオーケストラを彼が指揮する演奏会のチケットを両親にプレゼントしたことがある。だが私は、この指揮者にこれまで縁がなかった。それが今回かなったというわけである。

実際いつにも増して期待が高まった。前もってマーラの第3交響曲の演奏をいくつか聞いてみた。ドゥダメル指揮ベルリン・フィル、アバド指揮ウィーン・フィルなどである(本ブログで過去に取り上げたのは、ブーレーズ指揮ウィーン・フィル、初めて聞いたのはショルティ指揮ロンドン交響楽団だった)。そして今は、バーンスタインの演奏に耳を傾けながら、この文章を書いている(ニューヨーク・フィルハーモニック)。

さてその演奏だが、これは圧倒的な大成功だったと言えるだろう。日フィルがこれほど巧く演奏した例を私は知らない。特に弦楽器のアンサンブルは精緻を極めた。第6楽章は特に、極上のビロードのように深みのある色艶と光沢感が絶妙だった。終始集中力を欠かさず、いつまでも永遠に続くように思われた。何度も訪れるホルンの重奏も、時に不安定な時もあったが致命的な物ではなく、トランペットも舞台裏から聞こえるポストホルンも、さらには2台のハープや木管楽器と良く溶け合った。

シュタインバッハにある別荘でわずか2年のうちに書きあげられた交響曲第3番は、明るい雰囲気に満ち溢れた、ハンブルク時代の最後を飾る、マーラーの作品の中では自由で希望に満ちた作品である。それは彼の自然賛歌であり、美しい情景描写と心理描写に彩られている。冒頭こそファンファーレの大音量が鳴り響くがそれも最初だけで、あとは全6楽章、耳を澄まして聞く微弱音や弱音機を伴った金管ソロなどが続き、大音量の爆発を期待すると裏切られ続く。終楽章のコーダでクライマックスが築かれるものの、マーラーにしてはむしろ控えめで、その感動も長い道のりを経た後に底から湧き上がる精神的高揚感が勝っている。その意味でブルックナーやワーグナーのような作品に接する時のような気持ちになる。他のマーラー作品では、「大地の歌」が音楽的にこの部類に入ろうか。

カーチュン・ウォンの演奏は冒頭から気合の入ったものだった。オーケストラを含め少し緊張していたのだろう、雄弁に両手を駆使し、時には大きなゼスチャーで体を揺らして細かく指示する割には、オーケストラが大人しく思われた。だが、実際の演奏会ではいつもこのようなものである。それがどこかで化学変化を起こし、奇跡のような時間に突入することが稀にある。今回それがやってきたのは、第1楽章のコーダに向かう手前、チェロの重奏からだった。私の見立てでは、この数小節を境にオーケストラの音色が変わった。自信をつけた各楽団員が、それまでに見せたことがないようなレベルのアンサンブルを奏で始めたのである。

実演を聞く楽しみは、まさにこのような一期一会の時間に立ち会えることである。紛れもなくそれが起こった。長い第1楽章が終わって一旦指揮台を降りた時、オーケストラは再度チューニングを行った。合唱団とソリストは最初から舞台に登場し、微動だにせず出番を待っている。まるで赤ん坊を抱くような慈しみを持って、静かな音楽は進む。

カーチュン・ウォンの指揮はあらゆる指示を細かく出す。それが好みの分かれるところだろう。陶酔しすぎず、あくまで理性的な側面を残すことに、この指揮姿が貢献しているのかも知れない、と思った。だがかといってロマンチックな側面が犠牲になっておらず、若々しくて情熱的でもある。交通整理のような指揮姿で有名なロリン・マゼールの指揮を思い出させたが、決して無味乾燥で醒めた演奏にはなっていない。むしろオーケストラとの関係が今後深まったら、よく反応する個性的な演奏が生まれるのではないかと期待している。

1時間程が経過して3度目のチューニングを終えると、山下牧子(メゾ・ソプラノ)の歌唱が、舞台右側の壇上から聞こえてきた。第5楽章ではそこに、女声のハーモニア・アンサンブルと東京少年少女合唱隊が加わる。特に東京少年少女合唱隊の透き通った一糸乱れぬ歌声は、「ビムバム」という印象的な歌詞が何度も登場して独特の印象を残す。この歌唱が入る2つの楽章と最終楽章は、通して演奏される。

第6楽章は第1楽章と対照をなすものだが、自然描写が心理描写に置き換わってより高く、昇華されてゆく感を味わう。大野和士は解説で、この部分を天井に開かれた扉が開き、そこに入ってゆくような感じだと話しているが、そのような高まりは30分近くをかけて徐々に、確実に進んでいく。弦楽器のアンサンブルが例えようもなく美しいが、それを見事にやってのけた今回の日フィルは、圧巻の出来栄えであった。会場の誰もがその演奏に心を打たれた。この曲の最上の演奏のひとつが、今、示されているという感覚。消えては去っていく実際の音楽を、その時にだけ居合わせた人たちとだけ共有している感覚。演奏者と聴衆が一体となって、マーラーの音楽に酔いしれた。

指揮者が長いポーズをとって指揮棒を下ろさない。その間中、雷に打たれたように静まり返った。おそらく最も行儀のいい聴衆が、何も乱すことなく、この長い時間を静寂の中に留めた。やがて沸き起こる拍手と歓声が会場を覆ったとき、指揮者はまず歌手に走り寄り、続いて金管セクションに赴いた。これから長い拍手の時間だった。2つの合唱団と指揮者、さらにバンダで活躍したプレイヤーが何度も舞台に呼び出される。続いてセクションごとに立たせ、それを会場の各方向を向いてお辞儀を繰り返す。指揮者が去っても楽団員は残り、起立を拒む。そして楽団員と合唱団が全員引き上げるまでの長い時間、拍手が絶えることはなく、むしろそれは大きくさえなった。しばらくして指揮者がひとり舞台に登場すると、さらに大きな歓声が沸き起こった。

これほど満足した演奏会は、なかなかないものだ。そして今後、カーチュン・ウォンの演奏会が多く組まれているのも嬉しい。彼はアジアの作曲家の作品を多く取り上げたいと話しており、それと有名曲を組み合わせたプログラムが予告されている。チャイコフスキーのような聞きなれた作品でも、彼の演奏で聞いてみたいと思う。だから、やはり健康を維持して時間と経済力をつけないと、と前向きに誓った一日だった。

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