「ハイドンがもし今生きていたらこういう作品を書いたのではないか」という風に考えた若きロシアの作曲家は、まったく独自にわずか15分の交響曲を作曲した。愛すべきこの先品は2管編成、第1楽章アレグロ、第2楽章ラルゲット、第3楽章ガヴォッタ、第4楽章フィナーレの4つの楽章から成っている。溌剌としてメロディーも印象的な作品は、ストラヴィンスキーらのいわゆる「新古典主義」のさきがけとも言えるような時期に作曲された。
私が初めてこの曲を聞いた時、もう一つの条件があるように思った。それは「もしハイドンがロシア人だったら」というもので、この作品は少なくともプロコフィエフならではの作風がみなぎっており、それはまさしくロシア音楽の流れに基づくものであろうと思ったからである。ただそういうことはどうはでもよく、かわいらしく親しみやすい音楽は、短いながらもクラシック音楽を聞く楽しみを存分に味わわせてくれる作品である。
私の家にはエルネスト・アンセルメによる演奏のレコードがあったのだが、記憶が正しければこのレコードはちょっと変わった大きさで、LPよりも小さくいわゆる「ドーナツ盤」よりは大きなものだった。かなり再生回数が多かったのだろう、このレコードは擦り切れつつあった。その後私は「カラヤン・デジタル名演集」というタイトルの1500円の新譜レコードが発売された時、このレコードを買った。その中に「古典交響曲」が入っていた。
しかしカラヤンによる「古典交響曲」の演奏は、より後になってベルリン・フィル恒例の「ジルヴェスター・コンサート」で演奏されたものが、鮮烈な印象を残すものだった。この時のプログラムはこのあとにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で、独奏はまだ10代だったエフゲニー・キーシン。祖父と孫以上の年齢の開きのある演奏に興味津々聞き入った。カラヤンはもう満足に歩くことができず、ゆっくりと舞台そでを進む老人と彼を気遣う若者が登場する長い時間、カメラはズームを最大に引いてこのシーンをカムフラージュした。
そのプログラムの前半に演奏された「古典交響曲」は(ピアノ協奏曲第1番でもそうだったが)、もう体のコントロールがきかなくなりつつあったカラヤンを知り尽くしたベルリン・フィルが力で押し切ったような演奏で、重厚で十分なエコーもあり、そこそこ切れもある不思議な演奏だった。映し出される各奏者は、いつものように向こうからライトで照らされて体をゆするとそれが見え隠れする。元旦早朝の生放送をVHSのビデオに録って何度も見た。見ていて楽しい演奏というのが、カラヤンのビデオだった。
それに比べると、CDで発売された80年代初頭の演奏は無理なく整理された演奏である。悪くはないのだが、どことなく醒めた感じがする。私の印象により残っているのはアンセルメの後を継ぐシャルル・デュトワの演奏以外では、クラウディオ・アバドがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したもので、これには「ピーターと狼」の余白に収録されたものである。アバドのぜい肉をそぎ落とした指揮はプロコフィエフ作品によくマッチしており、ピアノ協奏曲を始めとして名演奏が目白押しである。この「古典交響曲」でもリズム感に溢れて刺激的であり、さらっとラルゲットやガヴォッタを通り抜けると、目一杯の速い速度で一気に快走するフィナーレに唖然とする。アバドの楽し気な指揮姿が目に浮かぶようだ。ヨーロッパ室内管弦楽団の巧さも特筆すべきものだと思う。
今年も残りあと7時間余りとなった。歳を取ると毎年新しい正月を迎えるたびに、よくここまで来れたものだという思いが強くなる。そういえば今年は飯守泰次郎の「ロマンティック交響曲」を聞いた。今年逝去したこの指揮者の最後の演奏会となったものだった。一方、オペラ「紫苑物語」で瞠目させられた作曲家西村朗も、若くして急逝してしまった。そのほかにはソプラノ歌手のレナータ・スコット、坂本龍一、そして谷村新司といった人も帰らぬ人となった。久しぶりに明るい年の瀬ではあるが、淋しい気分でもある。合掌。
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