2024年6月10日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第255回芸劇シリーズ(2023年6月2日東京芸術劇場、カーチュン・ウォン指揮)

今シーズンの定期会員向けにメールが来て、アンケートの回答者から抽選で、コンサートにご招待するという内容だった。対象の公演は6月2日(日)のマチネで、場所は東京芸術劇場(池袋)である。昨年死亡した坂本龍一の作品を中心に並べた企画ということである。単独で料金を支払ってまで行こうとは思っていなかったが、抽選で当たれば行ってみるのも悪くはない。そこでアンケート・フォームから応募をしたら、後日メールが来て当選してしまった。2名分あったので、久しく会っていなかった関東在住の甥に声をかけた。

プログラムは、作曲家としての坂本龍一をクラシックの系譜の中に位置づけてみようというもので、監修は早稲田大学教授の小沢純一氏となっている。彼は開演前に舞台に登場し、プレトークを行った。内容はほぼプログラム・ノートに書かれている通りだったのだが、それぞれの曲を選んだ経緯や理由を説明し、生前の交流やソリストを含め、坂本の作品と、関連の深い作曲家の作品を紹介することとしたとのことである。

プログラムは坂本がよく口にし、その影響を強く受けたと思われるドビュッシーの「夜想曲」で開始された。この25分程度の長さの曲は、女声合唱を伴うこともあってなかなか演奏される機会が少ない曲である(いわゆる「コスパ」が悪い)。ところが検索をしてみると、私は過去に一度だけ聞いている(シャルル・デュトワ指揮フランス国立管弦楽曲、1990年)。小沢氏のプレトークによれば坂本は、この「夜想曲」の中で表現される「雲」についてよく語っていたということである。曲の第1曲がその部分。ゆったりとした時間の流れの中で絶えず変化していく様を表現する音楽は、どことなく東洋的な生命観に通じるものがある。

続く作品は本日最大の聞き所となる曲で、坂本龍一の「箏とオーケストラのための協奏曲」である。ここで私は白状しておかなくてはならないのだが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)などで有名な彼を少しは知っていただ、ほとんど作品に触れることもなかった。東京生まれの坂本は、東京芸術大学を卒業している。作曲家としてデビューし、数々の作品を発表するが、いわゆる流行音楽のみの作曲家ではなかった。本日のプレトークやプログラム・ノートには語られていないが、坂本としてはそのキャリアの最初に目指したのは、むしろ純音楽であろう。私はそのような初期の作品にも目が向けられるのかと思っていた。

事実、数年前に放送されていたNHK教育テレビの音楽番組で、彼は西洋音楽の解説をしながら若い人たちへの講義を行っているのをたまたま目にしたとき、その内容に少し興味を持った。団塊の世代らしく学生時代から、一般的な音楽教育、すなわち西洋音楽の基礎的な教養や系譜に反感を持って接していた彼も、綿々と続く西洋音楽の歴史があること、それを踏まえたものとして今日の音楽があり、芸術としてが発展していることの重要性を語っていたのを覚えている。

このたび初めて聞いた「箏とオーケストラのための協奏曲」は2010年に作曲・初演されているから、いわば晩年の作品である。この時期にも彼はクラシック音楽を作曲していたことに驚いたが、さらに不思議なことにこの作品は、初演時にたった2回演奏されただけで、その後14年間一度も演奏されていなかったということである。自在に箏を操り、オーケストラと競演する奏者を見つけるのは大変かも知れないが、箏は我が国の伝統楽器であり、その奏者は多くいるはずであるにもかかわらず。

私は詳しいことはよくわからないが、箏にも何種類かあって初演時には何と「十七弦箏」を前方に4面並べ、楽章ごとに楽器を変えて演奏したということである。これによって箏の表現力が隅々にまで示された。しかし今回の舞台では、「二十五弦箏」が使われ、これ一面で足りるというのである。その箏だが、私が普段目にする横長の木の色をしておらず、長方形で幅は広く、黒いものだった。今回のソリスト遠藤千晶は、和服姿で登場したが、その広い箏の全面を、身を乗り出しながら縦横無尽に弦を抑えては弾く。その表現はこの和楽器のすべての要素をあまねく示し、新鮮な響きが次々と脳裏を刺激して飽きさせることはなかった。

全体で4つの楽章があり、特に第3楽章などはこれでフィナーレかと思いきや、そのあとに静かで抒情的な音楽が流れてくる塩梅で、その美しさに聞き入った。あとでプログラムを読むと、この4つの楽章は四季を表し、「冬」「春」「夏」「秋」という順序だそうである。秋を最後にしているのも興味深いが、終わってしまった曲をもう一度聞くことができない。いずれにせよ、和楽器と西洋楽器が見事に融合した素晴らしい曲だと思った。指揮のカーチュン・ウォンは通常暗譜で指揮するが、今日は1曲ごとに楽譜を手に取って掲げ、作曲者への敬意を表すことを忘れなかった。

休憩の後はポピュラーなプログラムで、映画音楽などから以下の作品が演奏された。まず坂本が音楽を担当した代表的な映画「ラスト・エンペラー」(1987年、ベルナルト・ベルトリッチ監督)より「The Last Emperor」。約6分の短い曲だが、「戦場のメリークリスマス」(1983年、大島渚監督)とならぶ坂本の映画音楽作品の代表作で、米国アカデミー賞作曲賞を獲得している。

続く作品は武満徹の「波の盆」から「フィナーレ」である。この曲は武満の残した映画音楽の中でもとりわけ美しい抒情に満ちており。私もこの1月に尾高忠明の指揮で接している。この曲をプログラムに入れたのは、指揮者カーチュン・ウォンの提案だったとのことである。映画と音楽を深く結びつけた我が国の作曲家との共通性を意識することになる。たった4分ながら、ここで私は尾高の演奏のようなスコットランド民謡風の演奏ではなく、より立体的なマーラーのような表情を持つ曲に変貌したことに驚いた。

プログラム最後の作品は、1992年バルセロナ・オリンピック開会式の音楽「地中海のテーマ」。東京音楽大学(今度は混声)が再登場。舞台中央にピアノが運ばれ、ハープ、チェレスタ、それに数々の打楽器を含めオーケストラの規模が最大限に膨れ上がった。さらに両翼にはスピーカー、ピアノの音を強調するための小さいスピーカーまでもが舞台に並べられた。

就職して上京した頃、バルセロナ・オリンピックは開催された。私は通信会社にいて国際テレビ映像なでも担当していたから、同僚の何人かがスペインへ出張していたから、この開会式は興味深く見た覚えがある。事前の話題をあまり知らなかった私は、何と坂本龍一が指揮をしていた姿に驚いた。なんとも賑やかでてんこ盛りのような曲。今回改めて聞くと、その様子がよくわかる。ミニマル風かと思えば、ジョリヴェのようなピアノも登場し、何が何やらわからないのだが、解説によればカタルーニャ地方の様々な伝承音楽にも題材を取っているとのことである。愛と情熱の国らしく、壮大で華やかな曲は、このコンサートの終わりに相応しいものだった。

カーテンコールが続いていたら、係員が開け放たれたピアノの蓋を閉じた。これでアンコールを確信した。曲は「Aqua」という短い曲だった。日曜日の会場には、ほぼ満員ではないかと思われるほどの盛況ぶりだった。私はそれまでに聞いたことのない音に触れ、それなりに満足だった。長いエスカレーターを下って外に出たときには、小雨が降り始めていた。甥を誘ってイタリアン・バルに出かけ、ビールを飲みながら軽く食事。梅雨入り前の時間を楽しく過ごすことができた。

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