2024年6月27日木曜日

R・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」作品30(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団[72年])

クラシック音楽作品には文語体での表現が多い。ヴェルディの歌劇「椿姫」もタイトルからして古風だが(最近では「トラヴィアータ」と原語の名称で表しているのを見かける)、その中のヴィオレッタのアリア「ああ、そはかの人か」というのには私は驚いた。これはあまりにわかりにくいので「あら、あなたなのね?」という表現に変わりつつある。でも、古くから慣れ親しんだ言い方は、そう簡単に変えられるものではない。「タンホイザー」の「夕星のうた」やモーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」なども有名だが、もともと聖書と同様、宗教的作品、たとえばバッハのカンタータなどはその宝庫と言える。

でもさすがに20世紀の作曲家シュトラウスともなると、もうこういった古風な表現は似合わないと思うのだが、何と交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」は、いまだにこの表現のままである(ひと頃、「ツァラトゥストラはこう語った」という表現に改まった時期もあったが、最近では再び文語調に戻っている)。ニーチェの原作がそのままだからだろうか、それとも文語調で表現した方が格調高く、より厳粛な感じになるからだろうか。明治維新以来、西洋音楽を崇高なものとして輸入したわが国では、このような表現の方が愛好家の自尊心をくすぐるものとして、もてはやされる傾向にあるのが真意かも知れない(ついでながら通はこの曲を「ツァラ」と略して呼ぶ。同様に「ティル」というのもあるが、「ドン・キホーテ」を「ドンキ」とは言わない)。

というわけで交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」は、難解なムードと大袈裟なオーケストレーションによってさらに神がかり的になり(もっともニーチェは「神は死んだ」と言ったのだが)、聞いてみると明るい感じがする曲である。実際にはこの作品は、シュトラウスの若い頃、20代の後半に作曲された。当時まだブラームスは健在だったことを考えると、その表現の豊かさ、大胆さには驚かされる。

「ツァラトゥストラかく語りき」はオルガンの低音が静かに鳴り響く中、ファンファーレが勇壮に飛び出し、ティンパニの強打がそれに続く。これを何度か繰り返したあと、爆発的に開始されるのが「導入部」である。この曲はSF映画「2001年宇宙の旅」で使われて大変有名になったため、クラシック音楽に縁のない人でも知らない人はほとんどいない。ところが驚くべきことに、その後の音楽になると有名どころか、まずほとんど知られていないのである。同じシュトラウスの管弦楽曲では、「ドンファン」や「英雄の生涯」のほうが有名であるくらいである。

だがコンサートでまさか「導入部」だけ演奏して終わり、というわけにもいかないので、通常は通して演奏される。30分強の長さの作品は切れ目がなく、「導入部」を含め9つの部分から成っている。オーケストラの編成は大規模で、オルガンのほかにハープや数多くの打楽器、管楽器が使われる。シュトラウスの管弦楽作品の醍醐味が味わえるので人気もあり、録音も多い。

ツァラトゥストラとは「ゾロアスター」のドイツ語読みである。ゾロアスターとは「ゾロアスター教」すなわち古代ペルシャにおける拝火教の始祖である。ゾロアスター教の教義がどういうものであるかは、それだけで大掛かりな読み物になるレベルだが、哲学者のニーチェはこの中に「神の死、超人、そして永劫回帰の思想」を発見し、この書物を書いた。この作品を読んだシュトラウスは、その内容にいたく感動しインスピレーションを得たようだ。おおよそ音楽で表現できないものはない、と豪語していたシュトラウスは、山にこもって知覚したその教えを説くツァラトゥストラの教義のいくつかを選び、それを音楽にした。以上が、もっとも簡潔なこの作品の解説である。

さて。音楽はこの人間主義の賛歌、神からの開放といった近代思想の核とも言うべきものが、音楽で表現されてゆく。様々な要素(調性や楽器、あるいは音型など)が何を意味し、それがどのように展開されてゆくかがこの音楽を解く鍵だが、それには音楽的知識が不可欠である。これは難解であるため、私のような素人はそのレベルに達していない。以下は私の解釈メモであり、間違いや欠陥が存在するかも知れないことをお断りしておく。

1.導入部(Einleitung)または、日の出(Sonnenaufgang)
2.世界の背後を説く者について(Von den Hinterweltlern)
3.大いなる憧憬について(Von der großen Sehnsucht)
4.喜びと苦しみという情熱について(Von den Freuden und Leidenschaften)
5.墓場の歌(Das Grablied)
6.学問について(Von der Wissenschaft)
7.病より癒え行く者(Der Genesende)
8.舞踏の歌(Das Tanzlied)
9.夜のさすらい人の歌(Nachtwandlerlied) 

導入部(日の出)は「自然」、その摂理である宇宙の営みが端的に示されている。これがいかに輝かしいものであるかは、以降の音楽がかすんでしまうほどに圧巻であることから明らかである。すべてに超越したような音楽を冒頭に置いているのは、この作品がバランスを欠いているからではなく、おそらく意図的であると思っている。短い導入部が終わって、オルガンが通奏低音として残る。

続く「世界の背後を説く者について」は意外にも明るい曲で、私は結婚式に似合いそうだと思っていたくらいだが、弦楽器が次第に増してゆくコラールのメロディーである。これはすなわち、キリスト教を意味している。「世界の背後」すなわち「自然の摂理」を支配するのは、キリスト教の神であると皆が信じた。しかし神はは所詮人間が考え出したものだ。自然を支配するのは神ではなく、人間であるという近代の思想が暗示されている。

輝かしい太陽(ハープ示される)に「大いなる憧憬」を抱くのは人間である。この作品では、様々な感情や概念が音楽上の動機(モチーフ)として表現されるというとても野心的な試みがなされている。人間は自然を前に慟哭の情さえ禁じ得ない。「喜び」すなわち「苦しみの情熱」を抱き、それを悪としてきた神に対し、人間の徳がこれに代わると説くのである。

「墓」とはこういう神を創造した旧い人間たちの墓場のことだろう。この墓へ赴き、死んだ人間を蘇らせよう。自然に対する憧れ、恐怖が昇華し最良の形で知性化されたのが「学問」である。学問は人間に勇気を与えた。この学問が病い、すなわち神の思想に支配された人々を目覚めさせる。

学問によって神からの呪縛から逃れようとする近代の人間、すなわち「病より癒え行く者」がたどり着いた泉のほとりで少女たちが踊る。シュトラウス音楽の聴かせ所である。踊りは動きのあるテンポに乗ってやがてワルツとなる。これは「生」の喜びを象徴している。それまでに登場したモチーフが次々に登場し、音楽はクライマックスを築く。様々な楽器が飛び交い、ヴァイオリンやチェロのソロが印象的である。

しかし終曲「夜のさすらい人の歌」は、やや悲観的なムードの曲である。結局、超越的な思想は世間に受け入れられることは難しい。諦めの境地を彷徨いつつ、静かに曲を閉じる。おそらくこの部分こそが、シュトラウスがニーチェに抱いた着想の本質なのだろう(永劫回帰)。

古今東西の様々な演奏がひしめくなかで、ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮した3つの録音が極めてこの作品に合っていると思う。この曲はカラヤンのためにあるのではと思うくらいである。3種類のどれがいいかは難しいが、もっとも古いウィーン・フィル盤が映画に使われたものだそうだ。それに対し、最新のデジタル盤は音質に関する限り最高であるには違いないが、カラヤン晩年の演奏でやや統率力を欠いているという向きが多い。結局のところ70年代の絶世期の演奏は、もっともバランスよくこの曲の魅力を最大限に表現している。

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