2024年12月31日火曜日

バルトーク:ピアノ協奏曲第2番Sz95(P: マウリツィオ・ポリーニ、クラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団)

今年世を去った音楽家のひとりに、イタリア人ヴィルテゥオーゾ、マウリツィオ・ポリーニがいる。彼の演奏するディスクが発売されるたびに大きな反響を呼び、私も数多くの録音に接してきた。しかし実演となると、接したのはわずかに1回。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会のうちの一夜のみである。ポリーニの数あるディスクの中で、特に面目躍如たるディスクを選んでみた。

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今年中に何とかバルトークのピアノ協奏曲について語ろうと思ってきた。しかし12月になってもなお、私は第2番についてでさえ書くことができないでいる。そうこうしている間に大晦日になった。このまま年を越すわけにはいかない。今年亡くなったポリーニの演奏を取り上げる予定でいるからだった。

大晦日の夜10時になって、私はいつものように散歩にでかけた。北風が吹く寒い夜に、歩く人はほとんどいない。そびえる数多くのタワーマンションにも約半数の部屋には灯りがともり、紅白歌合戦などを見ているのだろう。私は少しほろ酔い気分で、いつものコースを歩いている。時折千鳥足になるが、気分がいい。モノレールが轟音を立てて、上空を通り過ぎてゆく。そして耳にはポリーニの演奏するバルトーク。

妻が仕事を持ち、毎日疲れて帰宅するとき、彼女はしばしば愚痴をこぼし、最悪の場合には癇癪を起すことが判明した。気持ちが高ぶって怒りに燃え、その矛先を私を含むいろいろなものに向けるのである。私は仕事を持つ大変さを理解しているからできるだけ理性的にふるまうのだが、それでもハチャメチャな言動はしばしば常軌を逸する。そんなある日、バルトークを聞いた。ピアノ協奏曲第2番であった。正直に言うとそれまで、私はバルトークが理解できなかった。そして思った。もしかするとこれは、彼女の音楽ではないか、と。

時に気違いじみたような音階の分離。リズムに脈略はなく、そのような部分が現代人の心理状態を表している。私のバルトーク理解の第一歩はこのようなものだった。

妻の心理状態が時に理解不能に陥るように、バルトークの音楽は理解不能と思うことにした。「理解できない」ということを理解できるようになると、どういうわけか少し理解できるような気がした。今ではこのポリーニとアバドの古典的名演奏を含め、このような支離滅裂に思える音楽が、極めて理性的に演奏されていることが理解できる。これはこれで、そのような状況を楽譜に書かれた音符から忠実に再現しているのである。時代劇のチャンバラシーンと同じである。

だから今となっては、上の考えは修正する必要があると考えている。妻にも大いに失礼でもある。実際ピアノ協奏曲第2番は「難解すぎた」第1番の反省から「大衆にとっての快さ」を希求した作品であると語っている。バルトークの音楽は、このように一見キチガイじみた印象を残すが、次第に体に馴染んでいくようになる。

3つの楽章から成っている。第1楽章と第3楽章はアレグロ。この2つの楽章は、作品を構成する対称構造をなしていることからも、同じムードを持っていると言える。金管楽器も大活躍し、ピアノとの奇妙で丁々発止のアンサンブルが面白い。このピアノ・パートはほぼ休みなく続き、ピアニストをして大いに疲れさせ、しばしばけいれんを起こすほどだと聞いたこともある。だがポリーニはこれをあっさりと弾きこなしてゆく。アバドの伴奏がまた、こなれた音楽のようにさらさらと流れてゆく。このことがもしかしたら、バルトークらしい粗野で野蛮なイメージを薄めている。

バルトークの音楽的構造がどのようなものかを理解するのは難しく、相当な音楽的知識があってもそれを音楽史の中に正確に位置付けられるだけの教養が必要ではないか。ピアノの超絶的な奏法はいうに及ばす、加えて民俗音楽を研究しつくした意味で、ハンガリーあるいはその周辺地域の地理的、文化的特性をも知っておく必要があるだろう。彼が後年アメリカへ移住したことも。だがそうでなければバルトークの音楽を楽しめないか、というとそうではない。素人的な聞き方でいえば、この曲の持つ「ピアノの打楽器的用法」であるとか、前衛的なリズムなど、感覚的、情緒的に聞くことも十分可能である。

さて、私が夜の散歩をしながら聞き入るのは第2楽章である。アダージョとはなっているが、それ自体が三部構成になっていて中間部はプレスト。ひとしきり遅く荘重なリズムが続いたあとで、速く疾走するような音楽が出てきて興奮する。ポリーニ&アバドの真骨頂が示される。ここではトーン・クラスターと呼ばれる、或る音域の音符を一気に同時に(掌で)弾く奏法を聞くことができる。

バルトークの音楽はインターナショナルであると思う。ハンガリーの民俗音楽に拠る作品も残しており、それらはもっと聞きやすいが、彼はそこから発展し十二音技法などとはまた別に、ロマン派後期から現代音楽に至る橋渡しをしたと言える。その前衛性がなかったら、後世の残る音楽家にはなれなかっただろうとも想像がつく。そのバルトークの音楽を、ハンガリーの土着性と結び付ける解釈から昇華して、今や古典的な音楽たらしめるまでに研ぎ澄ませることに成功したアバドとポリーニによる演奏は、今もって驚異的であると言える。 

2024年12月30日月曜日

呉祖強:琵琶協奏曲「草原の小姉妹」(琵琶:劉徳海、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

年末のNHKテレビを見ていたら、今年亡くなった世界的指揮者小澤征爾の追悼番組が流れた。その番組は、主として小澤の中国での活躍と中国における西洋音楽界への貢献について、追悼演奏会を挟みながら追ってゆくものだった。小澤征爾は旧満州瀋陽に生まれた。彼は生涯を通じ、中国に対し熱い思いを抱き続けてきた。それは病気に侵された後も続き、教え子たちは小澤の追悼演奏会を今年11月に企画した、というのである。

私はかつて短波放送を聞いていたことから、中国の国際放送局である北京放送(現・中国国際放送)のリスナーだった。1978年からということになっており、この年12歳。日中が国交を回復した年である。文化大革命を主導した毛沢東が亡くなってからまだ2年しかてったいない。多くの西洋音楽家が追放され、楽団員のレベルは底を打っていたと言っていい。そんな地方の楽団に、小澤はボストン交響楽団の音楽監督という立場ながら出かけてゆく。

瀋陽にできたばかりのオーケストラがあった。わずか4日間の間に彼は見事なブラームスの交響曲と、それに中国の音楽を演奏した。そのビデオがわずかに流れた。ある日私は北京放送で、小澤征爾がボストン交響楽団を率いて中国公演を行った際の録音を、短波特有のノイズに埋もれた中で聞いた記憶がある。この時は首都体育館という広大なホールで、北京中央交響楽団との合同演奏会ということだった。演目はベートーヴェンの交響曲第5番。今回ドキュメンタリーで流れたものと同じ曲だった。

小澤の「運命」はいくつかの録音が出ていたが、その中でもテラークに録音されたものが音質も良好で気に入っていた。その演奏と基本的には同じ。そしてあれから半世紀たった今でも同じ。今回弟子たちが演奏するのもまったく同じ(指揮は俞潞)。高い集中力と研ぎ澄まされたリズム感で音楽をドライブしてゆく。テレビのディレクターも同じことを思ったのだろう。時を隔てた2つの演奏を繋げて、まるで同じ演奏であるかのように編集している。小澤の演奏は、聞いたことがない新鮮な響きに驚きながら、ついつい最後まで聞き通してしまう。この魔法のような特徴は、どの曲でも同様に感じられる。こそが彼の魅力であった。

北京放送から流れたボストン交響楽団の初訪中の演奏会は、中学生の私を興奮させた。この時の演奏をカセットテープに録音して、何度も聞き返した。小澤の昔の訪中の様子は、今回のドキュメンタリーでも流され大いに興味深かった。そして1979年の訪中の際に、何度も取り上げられたのが、呉祖強の作曲による琵琶協奏曲「草原の小姉妹」だった。この曲は1973年に作曲されえいるから文革の最中である。CDの解説によれば、一般に中国における音楽文化は一個人の委ねられる独奏芸術としてではなく、むしろ即興的で機能美を有していることが優先される。共産主義体制下でのこのような音楽を、文革が終わって間もない頃にアメリカのオーケストラが演奏している。

そしてこの曲が、公演から帰国したあとにボストンで録音され発売された。初演も担当した龍徳海の琵琶独奏というのも、訪中時と同じである。さらにはどういうわけか、リストのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:劉詩昆)、さらにはスーザの行進曲「星条旗よ永遠なれ」までもが収められている。私が購入して持っているこのフィリップス盤CDは、当然ながら今では廃盤だが、日本語の詳しい解説も付けられており、小澤のもう一つの側面を知る貴重な録音である。

呉祖強の琵琶協奏曲のストリーは、内蒙古の二人の姉妹が嵐に逢ってもなお人民公社の羊を守り抜いた、というもの。第1楽章「草原での放牧」、第2楽章「猛吹雪と激しく戦う」、第3楽章「凍てつく寒さの中、歩き続ける」、第4楽章「仲間たちを思い出す」、第5楽章「無数の紅い花が咲く」。社会主義礼賛の音楽は、今となっては過去の遺物か、それとも現在においてなお意味を持つ中国体制下の主流か(約17分)。

北京放送は当時、日本人よりも日本語が上手いとさえ思わせるような落ち着いた語り口だった。日中友好の時代が始まったものの自由に旅行などできる国ではなく、そういう時に中国各地を紹介した番組や中国語講座など、近くて遠い国を知る数少ない手がかりだった。今でこそ世界中に中国出身の音楽が数多くいるが、龍はまだ長い眠りから覚めたばかり。今の躍進を信じる人などいなかった。だが、その文化的存在の偉大さ故、簡単に西洋かぶれしてしまった日本人とは対照的に、西洋文化をすんなり受け入れているわけではない。これは政策的な側面というわけではない。

小澤は生前、自分の存在が「非西洋人にとって西洋文化が理解できるか」の実験台だと語っていたように思う。彼自身、真摯に西洋音楽に接し、その愚直なまでの姿勢ゆえに高い評価を得ていたと思う。1979年の訪中時、彼はすでにボストン響の音楽監督になって6年が経過していた。数々の批判にさらされながらも、29年間という長きに亘って音楽監督の座にあったのは驚異的である。そしてこの時代の小澤の音楽にこそ、その神髄があるように思う。この演奏はその小澤・ボストン響の、フィリップスへの最初の録音だそうである。

2024年12月18日水曜日

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ニューヨーク・タイムズ日曜日の音楽記事に「Karajan vs Karajan vs Karajan vs ...」という記事が掲載され、アメリカ、特にニューヨークの悪名高き評論家のカラヤン絶賛記事を目にしたのは1990年の春のことだった。この時私は、大学の卒業旅行と称して生まれて初めてアメリカ合州国を旅行し、カリフォルニア、フロリダ、そしてマサチューセッツを回ってニューヨークにたどり着いた。グレイハウンドのバスがストライキで運行中止となり、あろうことか満席となったアムトラックのチケットを辛うじて手に入れた私は、ボストンから5時間かかってマディソン・スクウェア・ガーデン真下にあるペンシルベニア駅に着いた。ニューヨーク郊外には当時伯父が暮らしており、私はそこに転がり込んで1週間余りの間、マンハッタンをくまなく歩いた。クラシック音楽に造詣が深い伯父は私に、カーネギーホールで開かれるコンサートのチケットを何枚も工面してくれた。

3月のニューヨークには毎年のようにウィーン・フィルが来ることになっている。丁度行き違いだったが、この年はレヴァインとバーンスタインが同行し、特にバーンスタインはブルックナーの交響曲第9番を演奏している。しかし新聞に載ったのはカラヤンの記事である。カラヤンはその前年の1989年7月、81歳で亡くなっているからもう故人ということだったが、なぜカラヤンの記事で紙面が埋め尽くされたのだろうか。それは前年のニューヨークでのカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏があまりに素晴らしかったからである。これは実演を聞いた伯父が話してくれた。最晩年、体のコントロールが効かなくなったカラヤンが、精力を振り絞って演奏会に臨んだのは、1989年2月のニューヨーク公演と、3月の最後のコンサート(ブルックナー交響曲第7番)だけである。そしてニューヨークで演奏された3回のコンサートのうちのわずかに1回が、ブルックナーの交響曲第8番だった。この歴史的な名演が、ニューヨークで語り種になったということである。

(インターネットの時代。この時の記事がたちどころに検索できた。その記事は1989年の公演についてではなく、膨大なカラヤンの録音から何を聞くべきか、ということを論じたものだった。一方、1989年の公演については短い論評が掲載された。この記事も検索出来たが、より興味深いのはこの時の公演のニュースがYoutubeに公開されていることで、第8番のコーダの一部を見ることができる貴重なものだhttps://www.youtube.com/watch?v=zBeVIrXf7Co

そのブルックナーの演奏は、前年1988年秋にウィーンでも演奏され録音された。私が愛するこの曲の愛聴盤はこの時の演奏である。カラヤンのあまりに突然の死後、ドイツ・グラモフォンから発売された追悼盤2枚組は、今でも宝物のように私のCDラックを飾っている。この演奏から聞こえるブルックナーの音楽は、ウィーン・フィルの例えようもない響きによって、どの演奏よりも美しい。カラヤンが残したブルックナーの交響曲第8番は何種類も存在するが、この最後の孤高の演奏は、もやは神がかり的とも言っていい。第1楽章の第1音から聞きほれてしまい、気が付くと90分近い曲が終わりかけている。これほど自然で力がはいらない演奏なのに、ひたすら磨かれて高くそびえたっている様はまさにブルックナーそのものである。記録によれば録音は1988年11月、ウィーン学友協会。エンジニアにはこの時でもあのギュンター・ヘルマンス氏がクレジットされている。1890年ハース版によっているのは旧録音に同じ。演奏時間は約83分。

ブルックナー最後の完成された交響曲である第8番は、最大の規模を誇り、演奏時間は80分に達する。演奏によって時間が大きく変わるのはブルックナーでは良くあることだが、それには版の違いというものも影響している。まずもとの楽譜には大きく2種類があり、1878年版(第1稿)と1890年版(第2稿)。これに編者による違いが付加され、現在良く演奏されるのが第2稿をベースとしたノヴァーク版とハース版である。私はそれほど気にならないのだが、マニアは版の違いを議論するのが好きなようで、多くの記事にはこの違いが語られている。大きな違いは第3楽章と第4楽章で、ハース版には存在するがノヴァーク板ではカットされているところが多い。私が所有しているわずか2組のCDでは、ショルティがノヴァーク版、カラヤンがハース版となっている。

ついでながらショルティの演奏を購入したのは、これが1枚もので手に入ったからである。若年層にとってCDの値段は大きな問題で、同じ曲でも2枚組は1枚物の2倍の値が付けられていたため、私はどうしても躊躇してしまった。ショルティの演奏はノヴァーク版によっている上に第2楽章などめっぽう速く、まるで1枚に収録することにこだわったような感さえある。今ではカラヤン盤も1枚ものとして発売されているようだが、長い演奏を1枚に収めるためにデジタル処理上のカットが施され、音質が悪くなったとの指摘もある。CDの収録時間を決めたのはカラヤンだと言われているが、その時に意識したのはフルトヴェングラーの「第九」だったと聞いたことがある。もしブルックナーの第8番を一枚に、ということになっていたらマーラーの交響曲などもすべて1枚で手に入ったのに、と思う。まあそういうことは、CD自体が古いメディアとなってしまった今では、どうでもよいことではあるのだが。

ブルックナーの交響曲第8番は4つの楽章から成っている。興味深いのは前半の2つの楽章が比較的短く(それでも約15分ずつ)、後半の2つが長い(約25分ずつ)。これにはいろいろな話がある。説得力がある説は、前半を長くしすぎると後半にクライマックスを築くのが難しくなると考えた、というものだ。第7番で前半を長くしすぎた反省から、というのである。真偽のほどはともかく、実演で聞いていると第3楽章こそが聴き所なので、全体が丁度いいバランスに感じられる。

カラヤンの演奏は2枚組なので、30分余りを聞いただけでCDを入れ替える必要がある。ストリーミング再生に慣れてしまった私は、なかなか第3楽章が始まらないのでおかしいなと思っていたら、そういうことだった。とはいえ今は、東海道新幹線を西へと向かいながらこの曲を聞いている。富士山が丁度いい塩梅に雪をかぶっている。多くの人がその風景を撮影しようとしている。私は富士山を眺めながら、ブルックナーの音楽が最高のBGMにもなることを発見した。おそらくただひたすら美しく、きれいに磨かれた曲だからのような気がする。何といおいうか、何も考えずに聞いていたくなるような曲なのである。

名古屋までの1時間余りは、この曲の長さと同じである。浜名湖を通り過ぎるところで第3楽章のクライマックスとなった。ブルックナーは次の交響曲第9番が未完成に終わった。マーラーの交響曲第10番も同じである。しかしこの第8番を完結させてくれていることを、神に感謝する必要があるだろう。それはマーラーの交響曲第9番も同様である。そして、そう考えていくとベートーヴェンの第9番がそうである。「第九」が後世の作曲家に与えた影響は計り知ることができないが、このブルックナーの交響曲第8番も、それを意識しているようなところがある。第2楽章をスケルツォとし、長大な第3楽章のアダージョに、クライマックスを含む聞かせ所が多い点など、「第九」を下敷きにしているのではないか、などと考えながら、滅多に聞くことのないこの曲を聞いた。

今年はブルックナー・イヤーで第8番も多くの演奏会で取り上げらられた。私も年内にこの曲について書き終えたいと思いながら、はや1年が過ぎようとしている。ミサ曲などを除けば、このブログで取り上げていないのは第2番と第9番のみとなった。いろいろな聞き方があると思うが、私はブルックナーの音楽を新幹線の中で聞くことに魅力を発見した。しかし耳元であの大伽藍のような音楽を再生するには限界がある。丁度最近私はスピーカーを30年ぶりに買い替えたばかりである。エージングが済んだら、このカラヤンのブルックナーを大音量で聞くことを心待ちにしている。

2024年12月6日金曜日

チャイコフスキー:交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド」(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

上越新幹線「とき」に乗って新潟へ向かっている。東京はこのところ小春日和が続いているが、裏日本の天候はこれとは対照的に寒く、連日冷たい雨が降っているらしい。週末の夜、私は仕事を早めに切り上げ念願の旅へと赴いた。耳からはチャイコフスキーの交響曲第3番が流れている。

「ポーランド」の愛称を持つ曲だが、チャイコフスキーの交響曲中最も知られていない曲である。この曲の際立った特徴は、5楽章構成であることと、長調で描かれていることである。作曲された1875年頃は、チャイコフスキーにおける「傑作の森」ともいうべき時期にあたり、ピアノ協奏曲第1番や「白鳥の湖」などが書かれている。この2曲はいずれもメロディーの宝庫のような曲で、一度聞いたら忘れられないような旋律がそこかしこに溢れている。だが、同時期に作曲されたこの交響曲第3番には、そのようなところがない。

標題となった「ポーランド」の舞曲は最終楽章に由来するが、それまでである。全体としてどことなく散逸的であると思ってきた。最新の新しい録音なら少しは聴き応えがあるかとも思ったが、今日はカラヤン指揮ベルリン・フィルの古い演奏に耳を傾けている。とりとめのない第1楽章が終わって第2楽章に入ると、少しメランコリックながらも明るいメロディーが流れてくる。思えばこの頃は、チャイコフスキーがそれまでの重圧(「5人組」からの影響)を少しずつ脱して、独自の作風を確立してゆく時期にあたる。前作の交響曲第2番同様、ここで聞けるのはロシア土着的音楽から西欧の影響を受けたモダンなチャイコフスキーへの転換の序章である。

私たちは、歴史に残る大作曲家が独自の作風を確立した後の有名作品にのみ注目し過ぎであり、実際にはそこに至るまで長い試行の中にこそ、その作曲家の真の姿に触れる思いがすることを、そしてそれらの作品がしばしばのちの名作を超えて、若々しく瑞々しい香りを放つことを知っている。第3楽章のアンダンテは、前楽章の続きのような曲がしばらく続いたところで急に流れるようなカンタービレが聞こえてくる。ここはきわめて印象的である。明るい中にも寂しいロシアの風景を思わせる、陰影に富んだチャイコフスキー節がこの曲の中間楽章の魅力である。

第4楽章のケルツォが聞こえてきた。列車は早くも長岡に到着した。雨が降っている。前の2つの楽章と違って行進曲風であり、管楽器の乱舞が楽しくトロンボーンの響きが美しい。これらはカラヤンの真骨頂なのだろうか。そしてポロネーズのリズムによって特徴づけられる終楽章は10分近い長さのフィナーレである。初めて聞いたときはいかにも冗長で退屈だと感じたものだが。

車窓は夜のとばりが下りてほとんど何も見えないが、「とき」は新潟平野を快走している。壮大なフィナーレが終わると同時に小雨の降る冬の新潟駅に到着した。今夜は初めて新潟に泊まる。そういえばさっき、社内誌で「水の美味しいところは何を食べても美味しい」とある作家が書いていた。今宵は日本海の幸を、数ある銘酒と共にいただくこととしようか。

ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

カルロ・マリア・ジュリーニとウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲第9番を聞いていると、これは望みうる世界最高のBGMではないかと思えてくる。この演奏をどう評価するのかは聞く人によるだろうし、遅すぎるとかもっといい演奏があるとか言われるかも知れない。しかし私にとってこの演奏は...