私はかつて短波放送を聞いていたことから、中国の国際放送局である北京放送(現・中国国際放送)のリスナーだった。1978年からということになっており、この年12歳。日中が国交を回復した年である。文化大革命を主導した毛沢東が亡くなってからまだ2年しかてったいない。多くの西洋音楽家が追放され、楽団員のレベルは底を打っていたと言っていい。そんな地方の楽団に、小澤はボストン交響楽団の音楽監督という立場ながら出かけてゆく。
瀋陽にできたばかりのオーケストラがあった。わずか4日間の間に彼は見事なブラームスの交響曲と、それに中国の音楽を演奏した。そのビデオがわずかに流れた。ある日私は北京放送で、小澤征爾がボストン交響楽団を率いて中国公演を行った際の録音を、短波特有のノイズに埋もれた中で聞いた記憶がある。この時は首都体育館という広大なホールで、北京中央交響楽団との合同演奏会ということだった。演目はベートーヴェンの交響曲第5番。今回ドキュメンタリーで流れたものと同じ曲だった。
小澤の「運命」はいくつかの録音が出ていたが、その中でもテラークに録音されたものが音質も良好で気に入っていた。その演奏と基本的には同じ。そしてあれから半世紀たった今でも同じ。今回弟子たちが演奏するのもまったく同じ(指揮は俞潞)。高い集中力と研ぎ澄まされたリズム感で音楽をドライブしてゆく。テレビのディレクターも同じことを思ったのだろう。時を隔てた2つの演奏を繋げて、まるで同じ演奏であるかのように編集している。小澤の演奏は、聞いたことがない新鮮な響きに驚きながら、ついつい最後まで聞き通してしまう。この魔法のような特徴は、どの曲でも同様に感じられる。こそが彼の魅力であった。
北京放送から流れたボストン交響楽団の初訪中の演奏会は、中学生の私を興奮させた。この時の演奏をカセットテープに録音して、何度も聞き返した。小澤の昔の訪中の様子は、今回のドキュメンタリーでも流され大いに興味深かった。そして1979年の訪中の際に、何度も取り上げられたのが、呉祖強の作曲による琵琶協奏曲「草原の小姉妹」だった。この曲は1973年に作曲されえいるから文革の最中である。CDの解説によれば、一般に中国における音楽文化は一個人の委ねられる独奏芸術としてではなく、むしろ即興的で機能美を有していることが優先される。共産主義体制下でのこのような音楽を、文革が終わって間もない頃にアメリカのオーケストラが演奏している。
そしてこの曲が、公演から帰国したあとにボストンで録音され発売された。初演も担当した龍徳海の琵琶独奏というのも、訪中時と同じである。さらにはどういうわけか、リストのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:劉詩昆)、さらにはスーザの行進曲「星条旗よ永遠なれ」までもが収められている。私が購入して持っているこのフィリップス盤CDは、当然ながら今では廃盤だが、日本語の詳しい解説も付けられており、小澤のもう一つの側面を知る貴重な録音である。
呉祖強の琵琶協奏曲のストリーは、内蒙古の二人の姉妹が嵐に逢ってもなお人民公社の羊を守り抜いた、というもの。第1楽章「草原での放牧」、第2楽章「猛吹雪と激しく戦う」、第3楽章「凍てつく寒さの中、歩き続ける」、第4楽章「仲間たちを思い出す」、第5楽章「無数の紅い花が咲く」。社会主義礼賛の音楽は、今となっては過去の遺物か、それとも現在においてなお意味を持つ中国体制下の主流か(約17分)。
北京放送は当時、日本人よりも日本語が上手いとさえ思わせるような落ち着いた語り口だった。日中友好の時代が始まったものの自由に旅行などできる国ではなく、そういう時に中国各地を紹介した番組や中国語講座など、近くて遠い国を知る数少ない手がかりだった。今でこそ世界中に中国出身の音楽が数多くいるが、龍はまだ長い眠りから覚めたばかり。今の躍進を信じる人などいなかった。だが、その文化的存在の偉大さ故、簡単に西洋かぶれしてしまった日本人とは対照的に、西洋文化をすんなり受け入れているわけではない。これは政策的な側面というわけではない。
小澤は生前、自分の存在が「非西洋人にとって西洋文化が理解できるか」の実験台だと語っていたように思う。彼自身、真摯に西洋音楽に接し、その愚直なまでの姿勢ゆえに高い評価を得ていたと思う。1979年の訪中時、彼はすでにボストン響の音楽監督になって6年が経過していた。数々の批判にさらされながらも、29年間という長きに亘って音楽監督の座にあったのは驚異的である。そしてこの時代の小澤の音楽にこそ、その神髄があるように思う。この演奏はその小澤・ボストン響の、フィリップスへの最初の録音だそうである。
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