2024年12月18日水曜日

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ニューヨーク・タイムズ日曜日の音楽記事に「Karajan vs Karajan vs Karajan vs ...」という記事が掲載され、アメリカ、特にニューヨークの悪名高き評論家のカラヤン絶賛記事を目にしたのは1990年の春のことだった。この時私は、大学の卒業旅行と称して生まれて初めてアメリカ合州国を旅行し、カリフォルニア、フロリダ、そしてマサチューセッツを回ってニューヨークにたどり着いた。グレイハウンドのバスがストライキで運行中止となり、あろうことか満席となったアムトラックのチケットを辛うじて手に入れた私は、ボストンから5時間かかってマディソン・スクウェア・ガーデン真下にあるペンシルベニア駅に着いた。ニューヨーク郊外には当時伯父が暮らしており、私はそこに転がり込んで1週間余りの間、マンハッタンをくまなく歩いた。クラシック音楽に造詣が深い伯父は私に、カーネギーホールで開かれるコンサートのチケットを何枚も工面してくれた。

3月のニューヨークには毎年のようにウィーン・フィルが来ることになっている。丁度行き違いだったが、この年はレヴァインとバーンスタインが同行し、特にバーンスタインはブルックナーの交響曲第9番を演奏している。しかし新聞に載ったのはカラヤンの記事である。カラヤンはその前年の1989年7月、81歳で亡くなっているからもう故人ということだったが、なぜカラヤンの記事で紙面が埋め尽くされたのだろうか。それは前年のニューヨークでのカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏があまりに素晴らしかったからである。これは実演を聞いた伯父が話してくれた。最晩年、体のコントロールが効かなくなったカラヤンが、精力を振り絞って演奏会に臨んだのは、1989年2月のニューヨーク公演と、3月の最後のコンサート(ブルックナー交響曲第7番)だけである。そしてニューヨークで演奏された3回のコンサートのうちのわずかに1回が、ブルックナーの交響曲第8番だった。この歴史的な名演が、ニューヨークで語り種になったということである。

(インターネットの時代。この時の記事がたちどころに検索できた。その記事は1989年の公演についてではなく、膨大なカラヤンの録音から何を聞くべきか、ということを論じたものだった。一方、1989年の公演については短い論評が掲載された。この記事も検索出来たが、より興味深いのはこの時の公演のニュースがYoutubeに公開されていることで、第8番のコーダの一部を見ることができる貴重なものだhttps://www.youtube.com/watch?v=zBeVIrXf7Co

そのブルックナーの演奏は、前年1988年秋にウィーンでも演奏され録音された。私が愛するこの曲の愛聴盤はこの時の演奏である。カラヤンのあまりに突然の死後、ドイツ・グラモフォンから発売された追悼盤2枚組は、今でも宝物のように私のCDラックを飾っている。この演奏から聞こえるブルックナーの音楽は、ウィーン・フィルの例えようもない響きによって、どの演奏よりも美しい。カラヤンが残したブルックナーの交響曲第8番は何種類も存在するが、この最後の孤高の演奏は、もやは神がかり的とも言っていい。第1楽章の第1音から聞きほれてしまい、気が付くと90分近い曲が終わりかけている。これほど自然で力がはいらない演奏なのに、ひたすら磨かれて高くそびえたっている様はまさにブルックナーそのものである。記録によれば録音は1988年11月、ウィーン学友協会。エンジニアにはこの時でもあのギュンター・ヘルマンス氏がクレジットされている。1890年ハース版によっているのは旧録音に同じ。演奏時間は約83分。

ブルックナー最後の完成された交響曲である第8番は、最大の規模を誇り、演奏時間は80分に達する。演奏によって時間が大きく変わるのはブルックナーでは良くあることだが、それには版の違いというものも影響している。まずもとの楽譜には大きく2種類があり、1878年版(第1稿)と1890年版(第2稿)。これに編者による違いが付加され、現在良く演奏されるのが第2稿をベースとしたノヴァーク版とハース版である。私はそれほど気にならないのだが、マニアは版の違いを議論するのが好きなようで、多くの記事にはこの違いが語られている。大きな違いは第3楽章と第4楽章で、ハース版には存在するがノヴァーク板ではカットされているところが多い。私が所有しているわずか2組のCDでは、ショルティがノヴァーク版、カラヤンがハース版となっている。

ついでながらショルティの演奏を購入したのは、これが1枚もので手に入ったからである。若年層にとってCDの値段は大きな問題で、同じ曲でも2枚組は1枚物の2倍の値が付けられていたため、私はどうしても躊躇してしまった。ショルティの演奏はノヴァーク版によっている上に第2楽章などめっぽう速く、まるで1枚に収録することにこだわったような感さえある。今ではカラヤン盤も1枚ものとして発売されているようだが、長い演奏を1枚に収めるためにデジタル処理上のカットが施され、音質が悪くなったとの指摘もある。CDの収録時間を決めたのはカラヤンだと言われているが、その時に意識したのはフルトヴェングラーの「第九」だったと聞いたことがある。もしブルックナーの第8番を一枚に、ということになっていたらマーラーの交響曲などもすべて1枚で手に入ったのに、と思う。まあそういうことは、CD自体が古いメディアとなってしまった今では、どうでもよいことではあるのだが。

ブルックナーの交響曲第8番は4つの楽章から成っている。興味深いのは前半の2つの楽章が比較的短く(それでも約15分ずつ)、後半の2つが長い(約25分ずつ)。これにはいろいろな話がある。説得力がある説は、前半を長くしすぎると後半にクライマックスを築くのが難しくなると考えた、というものだ。第7番で前半を長くしすぎた反省から、というのである。真偽のほどはともかく、実演で聞いていると第3楽章こそが聴き所なので、全体が丁度いいバランスに感じられる。

カラヤンの演奏は2枚組なので、30分余りを聞いただけでCDを入れ替える必要がある。ストリーミング再生に慣れてしまった私は、なかなか第3楽章が始まらないのでおかしいなと思っていたら、そういうことだった。とはいえ今は、東海道新幹線を西へと向かいながらこの曲を聞いている。富士山が丁度いい塩梅に雪をかぶっている。多くの人がその風景を撮影しようとしている。私は富士山を眺めながら、ブルックナーの音楽が最高のBGMにもなることを発見した。おそらくただひたすら美しく、きれいに磨かれた曲だからのような気がする。何といおいうか、何も考えずに聞いていたくなるような曲なのである。

名古屋までの1時間余りは、この曲の長さと同じである。浜名湖を通り過ぎるところで第3楽章のクライマックスとなった。ブルックナーは次の交響曲第9番が未完成に終わった。マーラーの交響曲第10番も同じである。しかしこの第8番を完結させてくれていることを、神に感謝する必要があるだろう。それはマーラーの交響曲第9番も同様である。そして、そう考えていくとベートーヴェンの第9番がそうである。「第九」が後世の作曲家に与えた影響は計り知ることができないが、このブルックナーの交響曲第8番も、それを意識しているようなところがある。第2楽章をスケルツォとし、長大な第3楽章のアダージョに、クライマックスを含む聞かせ所が多い点など、「第九」を下敷きにしているのではないか、などと考えながら、滅多に聞くことのないこの曲を聞いた。

今年はブルックナー・イヤーで第8番も多くの演奏会で取り上げらられた。私も年内にこの曲について書き終えたいと思いながら、はや1年が過ぎようとしている。ミサ曲などを除けば、このブログで取り上げていないのは第2番と第9番のみとなった。いろいろな聞き方があると思うが、私はブルックナーの音楽を新幹線の中で聞くことに魅力を発見した。しかし耳元であの大伽藍のような音楽を再生するには限界がある。丁度最近私はスピーカーを30年ぶりに買い替えたばかりである。エージングが済んだら、このカラヤンのブルックナーを大音量で聞くことを心待ちにしている。

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