2025年2月14日金曜日

ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68(カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

午前8時30分新宿発の列車に乗って、甲府方面へ向かっている。ここ1週間ほど日本列島はずっぽりと寒気に覆われ、それこそ北海道から鹿児島に至るまで平地を含めて雪の陽気であるにもかかわらず、関東平野は連日の快晴続きである。この時期の悪天候は、特に受験生とって大変だと思うが、我が街道歩きもなかなか工夫を要する事態となる。東海道は名古屋での大雪のため行くことがためらわれ、中山道も佐久平を過ぎると、冬季の交通機関がめっきり乏しくなくなる。

関東平野の主要な街道はほぼ歩き終えたので、残るは甲州街道のみである。その大半を占める山梨県は、どういうわけか晴天が続いている。それで次なる区間、甲府柳町から韮崎の間を、飛び石連休を利用して歩くことにした。富士山方面へと向かう外国人の観光客でごった返す新宿駅を後にして、甲府・河口湖行き特急「かいじ」は、立川までまっすぐ西へと延びる中央本線をゆっくりと走る。

私はかつてこの沿線に10年ほど住んでいたので、沿線風景が懐かしい。雪化粧した多摩連山がビルの隙間から顔を出すのを眺めながら、ブラームスの交響曲第1番を聴いている。まだ三鷹だというのに、もう第1楽章が終わってしまった。それほど中央線を走る特急は遅い。私の一番のお気に入りにして、この曲の魅力を最初に教えてくれたのが、今聞いているカール・ベーム指揮ベルリン・フィルによる演奏(59年)である。この時ベームはすでに65歳だった。

ステレオ初期の古い録音にもかかわらず音質は良い。第2楽章に入って静謐な森の中にこだまするような素朴なメロディーが、この列車のスピードに合っている。ベームにはウィーン・フィルと録音した全集もあるが。この第1番だけはベルリン・フィルとのステレオ録音があって(他は確かモノラル)、実のところこちらの方が音楽の骨格がかっちりとしていい。今日のような、寒く引き締まる思いがする天候に合っているな、などといい加減なことを思う。

ブラームスは北ドイツの港町ハンブルグの出身で、そこの陽射しは夏でも弱く、寒々として曇天が続く。我が国に当てはめれば、冬の日本海側を思えばよいだろうか。低く垂れこめた雪の合間からたまに日が差して、明るくなったかと思うと雪が降り出すというような感じである。音楽家の父を持ち、自身もピアノの才能に恵まれた29歳の青年は、ドイツの地方都市からウィーンに赴く。ほとんど同じ境遇だったベートーヴェンを強く意識するのは、当然のことだったに違いない。

そのブラームスが異常ともいえる21年の歳月をかけて、満を持して最初の交響曲を作曲したことは常に言われることである。ハンス・フォン・ビューローはこの作品を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼んだとも。つまりはそれだけの完成度、充実度を誇り、常に意識の中にあったドイツ音楽の伝統を見事に継承したことは事実である。

だからこの作品は、ベートーヴェンの焼き直しなどでは決してなく、ロマン派後期に属しながら古典的様式を研究し尽くし、新たな交響曲としての金字塔を打ち立てた。このことについてはあまりに多くのことが語られているので、私はこれまでブラームスの作品について、このブログで触れるのをためらってきたほどだ。

最初の停車駅立川で、もう第3楽章となった。一般に第3楽章は3拍子で書かれることが多く、特にベートーヴェンは「スケルツォ」をより劇的に進化させた感が強いのだが、ブラームスはこの楽章を3拍子で書いていない。これはブラームスの独自性を示す例で、この曲が決してベートーヴェンの模倣ではないことがよくわかる。

一方、ベートーヴェンの「第九」との親和性が示されるのが第4楽章のメロディーである。音楽を聞き始めた頃はここにばかり針を下ろしたので、その手前の弦の静かなピチカート部分でプチプチとノイズが発生することになってしまい、レコードに傷をつけたことを後悔したものだ。このメロディーは、第1楽章から聞いていくととても印象的である。私の全く個人的な感想だが、第4楽章は前半がロマン的で後半になると古典的。こういう音楽が昔からあったね、と回顧するような気持ちである。この音楽はベートーヴェンの交響曲第5番の、続けて演奏される第3楽章からのパッセージに似ているとも思う(いやハ短調からハ長調へと向かう「苦悩から歓喜へ」の流れを考えると、これはやはり同類とみなすべきだろう)。

気合を入れて演奏されるので、次第に熱を帯びてそれなりの名演になるのは、ベートーヴェン同様曲自体が引き締まって無駄がなく、隅々にまで考え抜かれた結果だろう。そしt特筆すべきは、様々なアンサンブルに加えて、ソロのシーンの連続でもあることだ。オーケストラの力量が全編に渡って要求され、聴きどころには事欠かない。

第1楽章冒頭のティンパニ連打から、それは明らかである。第2楽章は何といってもバイオリンの、高らかに舞い上がるようなソロ。数々の印象的なメロディを吹く第3楽章は、菅のオンパレード。まずクラリネット、そしてホルンとフルートが高らかに弾きならされるとき、聞き手は固唾を飲んで聞き入る。第4楽章後半の、一気になだれ込むコーダまでの凝縮された音楽は、その粘着的性質もあって聞き終えてもいつまでも頭に残る。

高尾を過ぎる頃には、何と曲が終わってしまったではないか。今はこの文章を書きながら、同じベームの指揮する「悲劇的序曲」を聞いている。この曲ではウィーン・フィルが演奏している。ドレスデンやベルリンで活躍したベームは、レパートリーこそ少なかったがモーツァルトの典雅な「コジ」やベートーヴェンの記念碑的「フィデリオ」など、いくつかの歌劇作品で、長きに亘りこれを凌駕することはないほどに完成度が高い演奏を残した。

晩年どちらかというとウィーン・フィルの技量に頼って演奏しているようなところがあるが、若い頃は前衛的な音楽を得意とする指揮者だった。ベルクやリヒャルト・シュトラウスの名高い演奏も多く、逆にブルックナーやマーラーの演奏は少ない。そして古色蒼然としたあのバイロイトのワーグナーもまた、歴史に残る記録である。そんなベームが残したベルリンとの「ブラいち」は、彼の遺産の一つとして今でも燦然と輝いている。

車窓から見る甲府盆地の風景

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