2026年7月30日木曜日

バルトーク:管弦楽のための協奏曲(小澤征爾指揮シカゴ交響楽団)

有名曲でもどうにも馴染めない曲というのがある。私にとってバルトークの代表作「管弦楽のための協奏曲」は、まさにその一つだった。他にはストラヴィンスキーの「火の鳥」、R・シュトラウスの「ドン・キホーテ」、あるいはベートーヴェンの「荘厳ミサ」も加えていいかもしれない。馴染めない要因は定かではないが、往々にしてあるのは「いい演奏」に出会えていないというケースだ。自分にとってしっくりくる演奏、魅力を再発見させてくれる演奏を「いい演奏」と呼ぶのなら、出会うまでとにかく探し続けなければならない。

ところでバルトークは、私とよく似た血液疾患を患い、それが原因で亡くなった作曲家である。しかも「管弦楽のための協奏曲」は、自らの死期を悟っていた闘病中に一気に書き上げられた作品だ(当時は病名が本人に知らされることはなかった)。アメリカへ亡命したものの生活に馴染めず困窮していたバルトークを心配し、多くの音楽仲間が支援を申し出た。ボストン交響楽団の指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキーもその一人である。

わずか数か月で書き上げられたこの曲はクーセヴィツキー(の財団)に献呈され、彼の指揮で初演された(1944年)。短期間で作曲されたとは信じられないほど充実した内容であり、バルトーク晩年、いや生涯における最高傑作の一つである。40分にも及ぶ5楽章構成の楽曲は、多彩な楽器が組み合わされた大規模な編成となっている。

第1楽章(序奏)は静かに始まるが、やがてほとばしるような勢いを増し、性急な音楽へと変化する。「死・絶望」と解説されることもあるが、実際この曲は、亡くなったクーセヴィツキー夫人への追悼作品として委嘱された経緯を持つ。金管楽器が入り乱れ、特に終盤における全金管楽器によるカノンは大きな聴き所だ。

第2楽章(対の遊び)は小太鼓のリズムが印象的で、ここで主役となるのは木管楽器群である。遊び心が垣間見え、諧謔的なムードが漂う。金管楽器は音量を抑え、弦楽器もピチカートを多用する。続く第3楽章(エレジー)は、8分に及ぶ弔いの音楽だ。とはいえ、そこはバルトーク。不協和音によって悲しみは湿度を失い、むしろ悲痛な叫びを表現しているかのようだ。そして第4楽章(中断された間奏曲)に入ると、リズムの面白い東欧の民謡風な楽曲となる。バルトークが優れた民俗音楽の研究家でもあったことを思い出させてくれる、短いながらも変化に富んだ楽章だ。

ホルンによる印象的な重奏で始まる終楽章(フィナーレ)は、まずこの冒頭がどれほど鮮烈に響くかが聴き所となる。続いて、急速なテンポによるヴァイオリンの迫力ある合奏(無窮動)が打ち寄せる。ここでもハンガリーの民族的なメロディーが溢れているが、テンポの速さも相まって聴く者は次第に興奮を禁じ得なくなる。

初演後、数多くの録音が残されたが、その多くは米国のオーケストラによるものだった。当時、米国の主要オーケストラの指揮者はほぼすべてヨーロッパ出身者であり、その多くがハンガリー系、つまりバルトークと同郷の演奏家たちであった。ジョージ・セル、アンタル・ドラティ、ユージン・オーマンディ、そしてフリッツ・ライナー。同じ白血病で亡くなるフェレンツィ・フリッチャイもそうだ。後年にはゲオルク・ショルティがシカゴ響と名演を残している。

私は1980年頃の『レコード芸術』の裏表紙に掲載されたデッカ(DECCA)の広告を今でも忘れることができない。だが、期待して聴いたこのショルティによる演奏は、私にさほどの感動を残さなかった。この曲の録音史においてはシカゴ交響楽団による演奏が軸となっているように思えるが、フリッツ・ライナーによる1955年の名録音(ステレオ)と双璧をなす……いや、それ以上に私の心を捉えて離さないのが、当時35歳だった若き小澤征爾の演奏である。1970年に録音されたこの盤は、ちょうどライナー盤とショルティ盤の端境期に位置している。

私が長年探し求めてきたこの曲の決定盤は、最終的にこの小澤盤へと行き着いた。今聴いても湧き立つような興奮を覚え、もの凄い集中力で一気に迫ってくる。ハンガリーの民族的なリズムが強調された表現は、実に鮮やかで見事だ。もし最初にこの演奏に出会えていたら、もっと早くこの名曲を好きになれていたに違いない。

2026年7月26日日曜日

ビゼー:歌劇「カルメン」(チョン・ミュンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団)(2026年7月23日サントリーホール、第1034回サントリー定期シリーズ)

 2時間半に及ぶ演奏時間中、ずっと興奮のしっぱなしだった。歌手といい合唱団といい、それにオーケストラと指揮者がすべて一体となって、スペイン南部を舞台にした迫真の舞台を作り上げた。弛緩することなく颯爽と流れる音楽は、終始ほどよい緊張感を持って進むが、抒情的なフレーズとなると少し速度を落としてカンタービレを奏でる。聞き古した音楽が次から次へと流れてきても、ほとばしるメロディーとリズムは新鮮な発見に満ちていた。

指揮者チョン・ミュンフンは次のシーズンから、ミラノ・スカラ座の音楽監督に就任する。その中で演奏されるのが、今回聞いたビゼーの歌劇「カルメン」である。その時の歌手を揃え、新国立歌劇場合唱団と東京フィルハーモニー交響楽団が、演奏会形式ながら感動的な舞台を作り上げた。その演奏は全部で3回。私はその最初のコンサートに、オペラ好きの妻と出かけた。

グレーのカーペットがオーケストラの前に敷かれていた。サントリーホールのP席には合唱団が陣取る。指揮者は歌手を前に出して、オーケストラの指揮に集中する。歌手は入れ代わり立ち代わり登場するが、最低限の小道具を持ち、さらに衣装を変える。カルメンなら最初は赤を基調としたジプシー女の気性を表す。後半にはその衣装が黒くなり、運命的な死を暗示する。ミカエラは常に清楚な青で、エスカミーリョはもちろん闘牛士ハットを被っている。

それにしてもチョン・ミュンフンの指揮は見事だ。丁度真横から見下ろす位置だったが、ここは少し音が分離して音が割れる。このため音響的にはやや不利ではあったが、それでもS席である。ここの席しか確保できなかったのだが、視覚的にはオーケストラのソリストも見えて悪くはない。チョン・ミュンフンは、最小限と思われるほど控えめな動きでありながら、オーケストラから豊穣で引き締まった音楽を引き出してゆく。その職人的な鮮やかさは、かつてのカラヤンを思い出させた。ほぼ片手だけで要所要所を抑える動きでも、すでに20年以上この指揮台に立っているからか、オーケストラは十分彼の指揮を心得ている。しかも新国立劇場のピットに入る常連オーケストラにとって、オペラの音楽はお手の物である。

両手をパッと広げ、時に右足が前に飛び出し、まるでサッカーのよう。その面白い仕草をもって、ここが締めどころであると思わせた。このような動きが見えるのは、演奏会形式の面白さである。演奏会形式と言っても、本格的な舞踊まで登場する。南風野香スペイン舞踊団の4人のダンサーが、この舞台に彩りを添えるさまに私は胸を熱くした。それは有名な「ジプシーの踊り」(第2幕冒頭)や終幕へ前奏曲だった。カスタネットを鳴らしながら、オーケストラのタンバリンに合わせて足を踏み鳴らしたとき、この舞台にカーペットが敷かれている理由がわかった。

私はこのオペラを見る時、もっとも感動するのは少年合唱団が歌う時である。2か所ある。まず第1幕の最初のところで、衛兵の行進を真似る歌。まだ歌手もほとんど登場しない。いや幕があがったばかりである。そこに世田谷ジュニア合唱団の小学生たちが横一列になって行進する。このシーン、私はたとえそれがCDやビデオであっても、涙が出そうになるのはなぜだろうか。この陰惨なストーリーにあって、ここの歌があまりに無邪気であるからだろうか。ビゼーの天才的な音楽は、とどまることを知らない。それから最終幕の導入部。前奏曲を再現するここの音楽は、合唱に少年合唱が加わって最高潮に達する。チョン。ミュンフンの手慣れた指揮が、少年合唱の歌いだしを見事に指示するあたりは、見ていて壮観であった。

合唱団の出来がこの舞台を相当に左右するのは明らかである。我が国最高峰と言っていい新国立劇場合唱団は、ある時は村の人々に、ある時は闘牛場の観衆に、その威力を発揮する見事な歌いぶりであった。動きを交え、口笛すら吹いて舞台の情景を蘇らせる。考えてみれば昨今の簡素な舞台が多い世界中の歌劇場である。いっそオーケストラを舞台に上げ、最小限の道具と振り付けさえあれば、低コストで十分見ごたえのある舞台となろう。演奏会形式によるオペラ上演は、ひとつの可能性を示しているように思う。

さて、歌手のことを書かなければならない。4人の主役を歌うの以下の面々である。

  • カルメン:ステファニー・ドゥストラック(Ms)
  • ホセ:マシュー・ポレンザーニ(T)
  • エスカミーリョ:アンドリー・チマキ(Br)
  • ミカエラ:スラーフカ・ザーメチニーコヴァー(S)

この歌手陣の中で、誰がもっとも優れていたとか、物足りなかったなどという評価自体が意味をなさないほどに、今回の舞台は見ごたえがあったと言うべきだろう。フランス人のドゥストラックは勿論のこと、メトロポリタン・オペラでも常連のポレンザーニの透き通る声は、この役の純情な側面を良く表していたし、時にホセを探して訪ねてくるミカエラの純情な声も非の打ちどころがない。

エスカミーリョは最初アナウンスされた歌手から交代したが、その存在感は抜群であった。彼は最初の登場のシーンこそもう少し演出上の工夫があってもよかったと思ったが(舞台の上部から登場するとか)、3回の公演で毎回変わる会場の制約という側面もあるのだろう。だが第3幕ではエスカミーリョは、そのP席後方から見事な声をホール全体に轟かせた。

主役級の外国人に混じって脇役を演じたのはすべて日本人だったが、彼ら、彼女らの歌唱水準の高さを言わないわけにはいかない。日本人だけの舞台なら間違いなく主役級を演じても良さそうな出来栄えの歌手が、東洋人だという理由だけで脇役に甘んじるのを見るのも残念だが、「カルメン」では結構脇役も歌う。私は特フラスキータ役の砂田愛梨は印象に残った。

会場に詰め掛けた聴衆は定期会員を含め、どことなくいつもより興奮した様子。第1幕からブラボーの連続であった。安易に拍手をしすぎると全体の流れを邪魔してしまいそうになる。だが手を叩きたく感情を抑えるのは忍びないのである。この2つの気持ちが、私の心の中で葛藤する。終始ひょうひょうとした表情の指揮者は、舞台が終わってもさほど表情を変えることはなく、そのことさえもが今や世界のオペラ指揮者の風格を感じさせた。

チョン・ミュンフンはしばしばこの作品を世界中で取り上げているようであり、パリを始め数々の劇場のピットに立ってきたにもかかわらず、「カルメン」を収録したCDやビデオはないようだ。そして今や、オペラ全曲を録音するチャンスは激減している。私は夜中になっても旋律が頭から離れず、熱帯夜もあって眠れなかったので過去の録音から、どんな歌手が誰の指揮で歌っているか、Spotifyを検索しながらつまみ食いしてみた。

有名なマリア・カラスによる演奏は、代表的な歴史的録音として有名だが、この作品をステレオ録音してくれたことは嬉しいものの、プレートルの弛緩した指揮と、カラス以外の役者の存在感が乏しいこと、さらにカラスも絶頂期をとっくに過ぎていることから、やや色褪せて感じられる。

2つあるカラヤンの演奏では、そのダイナミックな指揮に圧倒され、いまでも代表的な録音と言える。丸で歌舞伎役者が登場するようなエスカミーリョの歌唱シーンなど、カラヤン節が堪能できるし、新しい方のカレーラスとバルツァを起用した歌唱は大いに聞きごたえがある。だが、この演奏もすでに半世紀がすぎつつあり、古い演奏の感が否めない。

テレサ・ベルガンサを起用して物議を醸したアバドの演奏も、どことなく音楽が硬く、いまや古い。次の世代、アラーニャとゲオルギューらによるパッパーノ盤も、古い録音を凌駕しているとは言い難い(ただし録音の良さはある)。結局、この完璧に有名なオペラにあっても、なかなか満足のいく録音にであうことは難しい。スカラ座に転身するチョン・ミュンフンの録音が出れば、私は間違いなく最高の一枚になると思った。

そうそう、ウィーンでライブ収録されたクライバーの映像を忘れていた。このめくるめき絶頂が連続する一期一会の上演は特別である。だがこの録音(おそらくテレビ収録用)は極めて劣悪である。AIの時代、こういう質の悪い録音を蘇らせてくれる技術は登場しないものだろうか? そんなことも考えた今回の「カルメン」の演奏だった。チョン・ミュンフンが指揮する演奏会形式による定期も、私はこれまで聞いた「フィデリオ」や「ファルスタッフ」を含め、毎回大いに感動的であったことを付け加えておきたい。だから、今年あと2回予定されているオーケストラ演奏会を含め、来シーズンからのプログラムにも大いに期待したい。せっかくなのでヴェルディの初期作品、それからプッチーニも聞いてみたい。

2026年7月12日日曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第415回みなとみらいシリーズ定期演奏会(2026年7月11日 横浜みなとみらいホール、沼尻竜典指揮)

横浜みなとみらいホールで開かれた神奈川フィルの定期演奏会のチケットを衝動買いしてしまったのには、理由がある。昨年聞いた沼尻竜典指揮のブルックナー(交響曲第5番)に大いに感銘を受けたからである。そして今回は第7番。私は今年、N響で第6番も聞いたし夏には第4番のレクチャー・コンサート、さらには秋に第8番をミンコフスキの指揮で聞く予定である(都響)。とすれば、この第7番はちょうどいい。

だが直前まで迷ったのは、そのプログラムの短さである。何とこの日は、1曲だけ。通常、ブルックナーの交響曲第7番は、何か別の作品を前半に置き、後半にこの曲を演奏するのが通例だ。なぜなら演奏時間が1時間強。わずか1曲だけをプログラムに据えるには、ちょっと短すぎると思われるのだ。それだからか知らないが、直前まで数多くの席が売れ残っており、演奏者に気の毒なくらいである。土曜日のマチネーだというのに、しかもこのプログラムはこの1回限りなのに。

神奈川フィルは東京に近いこともあって、その有利な点と不利な点を併せ持っているように思う。すなわち、東京の世田谷あたりに住む比較的裕福な人たちにとって横浜は、さほど遠いわけではない。むしろ、下手に東京の都心(池袋や初台、あるいは上野にしても)に出て来るよりは近い。しかも横浜はいろいろ見どころがあって、東京ほど人も多くないし、夏は比較的涼しい。一方、東京にあまたあるプロのオーケストラの水準は、長い歴史の中で醸成された確固とした地位があって、それらに比べると歴史の浅い神奈川フィルは、どうしても見劣りしてしまう。クラシック音楽ファンは、保守的な人が多いから定評のある団体や指揮者を手放しで称賛する一方で、若手は実力があっても蔑む傾向が根強いのだ。

私も過去に出かけた神奈川フィルの演奏会のすべてに満足したわけではない。しかし、ここ最近、特に沼尻竜典が音楽監督に就任してからは、なかなかの名演奏が続いている。もちろん彼自身が指揮した演奏会において、私はそう感じている(他の指揮者は実はよく知らない)。楽団員がかなり若返ったことも大きいと思った。だから昨年、沼尻の指揮する第5番を聞いたときには、心の底から圧倒されたのだった。

私はここから順にブルックナーの交響曲を演奏していくのだろうと思っていた。次は第6番あたりが終って、今回いよいよ第7番か、と思っていた。ところがどうもそれは違っていて、第8番をすでに演奏しCDも作成したところ、これが案外評判良く、それなら第7番も、となったようである。だからこの日の演奏会も、録音装置が舞台に並んでいた。

さて、沼尻の指揮する神奈川フィルだが、それはアンサンブルの見事さに尽きる。日本のオーケストラの水準の向上は、おしなべて目を見張るものがあるが、神奈川フィルも例外ではなく、しかも沼尻の指揮が実にこのアンサンブルを鍛えている。その結果、時にある楽器が突出していたり、濁っていたりすることもなく、綺麗にスーッとフレーズに溶け込んでいくのだ。この要素はブルックナーに必要不可欠で、しかも大音量時の音の安定性こそ決定的である。目立つ金管楽器は言うに及ばないが、ここで音を踏み外す演奏会が後を絶たない。

だがこれまでの沼尻指揮神奈川フィルの演奏会は、(先々週聞いた「トスカ」を含めて)ことごとく素晴らしい音色であった。かと言って音楽が決して小さくはならず、安全運転のようなつまらなさは感じられない。つまり演奏の水準はなかなかのものである。ブルックナーをやたら遅く指揮するのが好きな聞き手も多いが、これも良し悪しで、ただ遅くすればいいというものではない。沼尻は遅くはなく、かと言って、煽るような角の立つ指揮でもない。ブルックナーに必要な自然な感覚が、しっかりと息づいていて好ましい。

特に今回感じたのは、前半の2楽章があまりに凝っていて長いために拍子抜けする後半がむしろ充実していたと思われることだ。オーケストラが次第に自信をつけ、大胆になっていったのが後半(特に第3楽章の中間部から)だったという点も大きいだろう。けれどももしかすると、今回の演奏はあえて後半に力点を置いたのかもしれない。結果的に、第2楽章の重厚でしみじみとしたフレーズは、やや物足りないものだった。もう少し余裕があれば、大きなフレーズが大波になって押し寄せるような感覚に包まれただろう。いや多くのブルックナー・ファンはそれを期待しているし、第2楽章の後半で打ち鳴らされるシンバルの一打(今回はノヴァーク版)に、この曲の極限値を求めている。ここさえよければ、後は付け足しでよい、とさえ開き直って。

だが、今回の演奏はこの考えに一石を投じた。むしろ第3楽章以降の音楽にも聴きどころが多くあって、まるで尻切れトンボのように終わる最終楽章も、そう感じさせないようなところがあった。ワーグナーの葬送行進曲とさえ形容される第2楽章が、相対的にあまりに存在感が大きいと、後半にクライマックスを築くことが困難になる(そういえばベートーヴェンの「エロイカ」が同じだ)。だから、沼尻はこの曲でバランスを取るべく、後半にも重点を置いたような気がする。

客席の入りは6割程度だっただろうか。しかし熱心なファンが3階席からブラボーと叫んだのは、タクトが下ろされてからで、つまりは終演後に少しの時間、祈りのような空白があった。こうなると第9番も聞いてみたい。来シーズンのプログラムも楽しみな神奈川フィルの演奏会に出かけるのが、ちょっとした喜びに感じられてきた。みなとみらい線の地下駅から帰宅するのがもっとも便利ではあるが、マチネの時ならランドマークタワーの3階にあるフィレンツェのジェラートを食べながら観覧車を眺めるのも悪くない。帰りは桜木町に再び戻って、野毛の安い居酒屋で一杯やるというのも楽しいに違いない。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...