だが直前まで迷ったのは、そのプログラムの短さである。何とこの日は、1曲だけ。通常、ブルックナーの交響曲第7番は、何か別の作品を前半に置き、後半にこの曲を演奏するのが通例だ。なぜなら演奏時間が1時間強。わずか1曲だけをプログラムに据えるには、ちょっと短すぎると思われるのだ。それだからか知らないが、直前まで数多くの席が売れ残っており、演奏者に気の毒なくらいである。土曜日のマチネーだというのに、しかもこのプログラムはこの1回限りなのに。
神奈川フィルは東京に近いこともあって、その有利な点と不利な点を併せ持っているように思う。すなわち、東京の世田谷あたりに住む比較的裕福な人たちにとって横浜は、さほど遠いわけではない。むしろ、下手に東響の都心(池袋や初台、あるいは上野にしても)に出て来るよりは近い。しかも横浜はいろいろ見どころがあって、東京ほど人も多くないし、夏は比較的涼しい。一方、東京にあまたあるプロのオーケストラの水準は、長い歴史の中で醸成された確固とした地位があって、それらに比べると歴史の浅い神奈川フィルは、どうしても見劣りしてしまう。クラシック音楽ファンは、保守的な人が多いから定評のある団体や指揮者を手放しで称賛する一方で、若手は実力があっても蔑む傾向が根強いのだ。
私も過去に出かけた神奈川フィルの演奏会のすべてに満足したわけではない。しかし、ここ最近、特に沼尻竜典が音楽監督に就任してからは、なかなかの名演奏が続いている。もちろん彼自身が指揮した演奏会において、私はそう感じている(他の指揮者は実はよく知らない)。楽団員がかなり若返ったことも大きいと思った。だから昨年、沼尻の指揮する第5番を聞いたときには、心の底から圧倒されたのだった。
私はここから順にブルックナーの交響曲を演奏していくのだろうと思っていた。次は第6番あたりが終って、今回いよいよ第7番か、と思っていた。ところがどうもそれは違っていて、第8番をすでに演奏しCDも作成したところ、これが案外評判良く、それなら第7番も、となったようである。だからこの日の演奏会も、録音装置が舞台に並んでいた。
さて、沼尻の指揮する神奈川フィルだが、それはアンサンブルの見事さに尽きる。日本のオーケストラの水準の向上は、おしなべて目を見張るものがあるが、神奈川フィルも例外ではなく、しかも沼尻の指揮が実にこのアンサンブルを鍛えている。その結果、時にある楽器が突出していたり、濁っていたりすることもなく、綺麗にスーッとフレーズに溶け込んでいくのだ。この要素はブルックナーに必要不可欠で、しかも大音量時の音の安定性こそ決定的である。目立つ金管楽器は言うに及ばないが、ここで音を踏み外す演奏会が後を絶たない。
だがこれまでの沼尻指揮神奈川フィルの演奏会は、(先々週聞いた「トスカ」を含めて)ことごとく素晴らしい音色であった。かと言って音楽が決して小さくはならず、安全運転のようなつまらなさは感じられない。つまり演奏の水準はなかなかのものである。ブルックナーをやたら遅く指揮するのが好きな聞き手も多いが、これも良し悪しで、ただ遅くすればいいというものではない。沼尻は遅くはなく、かと言って、煽るような角の立つ指揮でもない。ブルックナーに必要な自然な感覚が、しっかりと息づいていて好ましい。
特に今回感じたのは、前半の2楽章があまりに凝っていて長いために拍子抜けする後半がむしろ充実していたと思われることだ。オーケストラが次第に自信をつけ、大胆になっていったのが後半(特に第3楽章の中間部から)だったという点も大きいだろう。けれどももしかすると、今回の演奏はあえて後半に力点を置いたのかもしれない。結果的に、第2楽章の重厚でしみじみとしたフレーズは、やや物足りないものだった。もう少し余裕があれば、大きなフレーズが大波になって押し寄せるような感覚に包まれただろう。いや多くのブルックナー・ファンはそれを期待しているし、第2楽章の後半で打ち鳴らされるシンバルの一打(今回はノヴァーク版)に、この曲の極限値を求めている。ここさえよければ、後は付け足しでよい、とさえ開き直って。
だが、今回の演奏はこの考えに一石を投じた。むしろ第3楽章以降の音楽にも聴きどころが多くあって、まるで尻切れトンボのように終わる最終楽章も、そう感じさせないようなところがあった。ワーグナーの葬送行進曲とさえ形容される第2楽章が、相対的にあまりに存在感が大きいと、後半にクライマックスを築くことが困難になる(そういえばベートーヴェンの「エロイカ」が同じだ)。だから、沼尻はこの曲でバランスを取るべく、後半にも重点を置いたような気がする。
客席の入りは6割程度だっただろうか。しかし熱心なファンが3階席からブラボーと叫んだのは、タクトが下ろされてからで、つまりは終演後に少しの時間、祈りのような空白があった。こうなると第9番も聞いてみたい。来シーズンのプログラムも楽しみな神奈川フィルの演奏会に出かけるのが、ちょっとした喜びに感じられてきた。みなとみらい線の地下駅から帰宅するのがもっとも便利ではあるが、マチネの時ならランドマークタワーの3階にあるフィレンツェのジェラートを食べながら観覧車を眺めるのも悪くない。帰りは桜木町に再び戻って、野毛の安い居酒屋で一杯やるというのも楽しいに違いない。
