この曲は、オーストリアの風光明媚な観光地ヴェルター湖畔にあるペルチャッハにて、交響曲第1番の完成からわずか1年のうちに作曲された。第1番の完成に21年もの歳月を要したのに比べると、圧倒的な速さである。
私はウィーン以外のオーストラリアへ出かけたことはなく、その自然の美しさを知らない。毎年ニューイヤーコンサートで見る各地の古城や田園風景は、それはまるで絵画のように美しく、このような環境の中に身を置いてこそ、豊かな音楽性が開花し名曲が生まれるのだろうと想像している。実際作曲家自身も、自然が創作意欲を掻き立てることを手紙などに記している。ブラームスも例外ではない。
自然をそのまま音楽にしたような牧歌的で明るい曲想が、44歳のブラームスを通して第2作目の交響曲となり、100年以上の歳月を経て我々のもとにある。50年前の演奏でも、録音されていれば再生が可能だし、楽譜によって演奏家が同じ音楽を再現するのをコンサートで体験することもできる。「ブラームスの田園交響曲」と言われるこの第2番に、私はこれまで幾度となく接してきた。ある作家が死の直前、ここの第1楽章の主題をレコードでかけるようにと言い、それを再生機で聞いた彼は静かに「そうだ、これでいいのだ」と辞世の言葉を残したそうである。
私もクラシック音楽を聴き始めた中学生時代、たった4曲しかないブラームスの交響曲を第1番から順に聞いていった。いや、第1番の次はいきなり第4番で、第3番が最後だった。他の家庭はどうか知らないが、少なくとも我が家には第1番のレコードが10枚近くあり、次いで多いのが第4番だった。第2番と第3番は1枚もなかった。知り合いの家に遊びに行った折、そこにあった第2番のレコードをはじめて聞くことになった。演奏はシュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィル。そのときは、なんだか大人しく地味な曲だという印象しか残らなかった。
中学校3年生になって、ある寒い土曜日の朝、寝床でFM放送を聞いているとこの曲が流れた。当時は土曜日でも通学する必要があった。暖かい布団の中で、そわそわしながら耳を傾けていた。すると第4楽章になってアレグロの音楽が勢いよく流れてきた。最後はこんな風になるのだと思った。コーダでは思いっきりクライマックスを築き、気持ちよく終わる。朝からこのような曲を聴き爽快な気分で学校へ出かけたが、私の頭からはこの曲が、一日中鳴り響いて途絶えることがなかった。
この時の演奏は、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルのものだったと記憶している。ここで取り上げようかとも思ったが、第1番でベームを推したので、それとは異なる演奏にした。それはジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮したものである。古い60年代の録音であるにもかかわらず、今もってこの演奏を超える印象を残すものに、私は出会っていない。同様のことを思う人も多いのか、この古い録音は何度もリマスターされ、未だにリリースされ続けている。
第2番の聴きどころは多い。まず、第1楽章の冒頭の旋律。弦楽器が出てすぐにホルンから木管へとメロディーが受け継がれていく。やがて弦楽器がひらひらと降りてきて風が滞ったかと思うと、おもむろにそよ風が頬をそっと撫でるように現れる。ここは第1の聞き所で、春風のように明るく朗らかにやるか(バーンシュタイン)、テンポを揺らして想い深く通り過ぎるか(モントゥー)、スコットランド民謡のように素朴に演奏するか(バルビローリ)。この主旋律は、そのあと繰り返しの際にも出てくるが、再現されるときにいかにハッとさせるかを私はいつも注目する。おそらくそういう演奏に過去出会ったからだろう。
ここは特に印象的でなければならない。ジュリーニのように遅すぎると緊張感が続かず、ショルティのようにせっかちというのも、私の感性に合わない。セルの中庸の美学は、ここでも大変好ましい。
第2楽章は、この曲の演奏の善し悪しを左右するものだ。ただこのことは、何度もこの曲を聴いてきて次第にわかってくるものである。クラシック音楽の魅力を知るには時間が掛かるが、その楽しみは長く続く。セルの演奏は、骨格がしっかりとして居ながら抒情的な面も豊かで、表情付けにメリハリが効いている。中音域のメロディーラインが一定の幅の中で上昇・下降を繰り返しながら進むが、決して明るく晴れたりはしない。
このあたり、シューマンの音楽もそうで、いわばドイツ・ロマン派の伝統という気もするのだが、ブルックナーやワーグナーのように(ブラームスと対立関係にあった)、南ドイツ風の時折日差しが差し込むというものではなく、あくまで曇り。このような閉塞的な気象と気性から、ブラームスの難しさがあるように思う。難しさと書いたが、これは好みの難しさ。つまり心から好きになれないけど、だからといってそんなに嫌いでもないのである。
第3章は素朴でほのかに明るく、3拍子のリズムはここの楽章を舞曲とする交響曲の伝統に回帰するようなところがあって好ましい。一方、第4楽章の爆発するようなリズムとメロディーをどう解釈するのがいいのだろうか?この曲を通して自然がひとつのモチーフだとすれば、ここはやはり春から初夏にかけての、浮き立つような喜びということではいだろうか?セルの演奏で聞いていると、民族舞曲がベースとなっているかのように聞こえてくる。ただそれでも南欧風の快晴ではない。
この曲は有名で人気がある割には、演奏の良し悪しや好みというものがよくわからないのが事実。同じことがベートーヴェンの「田園」にも言える。曲に問題があるかのようだと最初は思っていたが、セルの演奏に出会ってから、その考えは間違っていたことに気づいた。
新幹線の車窓風景に流れる冬の静岡の風景は、この曲のこの演奏によくマッチしている。
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