2025年1月28日火曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第660回定期演奏会(2025年1月25日すみだトリフォニーホール、佐渡裕指揮)

久しぶりに聞いた佐渡裕の指揮は、オーバーアクション気味だった若い頃に比べ随分落ち着いたものになったと感じた。新日本フィルは佐渡を音楽監督に迎えてから、快進撃を続けていると言って良いだろう。特に彼の指揮するコンサートのチケットは、入手困難になりつつある。今年2年目となる24-25シーズン中最大の聞きものであるこの日の演目は、マーラーの交響曲第9番である。

バーンスタインの弟子として自らを紹介する彼にとって、バーンスタインが残したマーラーの交響曲全集は、クラシック音楽史上の遺産と言ってもいいだろう。そのマーラーの最高作品とも言える第9交響曲を指揮するとなると、それはもう一大事である。満を持して入魂の演奏が期待できる。そのように感じていた東京のクラシック音楽ファンは大勢いたであろう。当然というべきか、25日のすみだトリフォニーホールでの公演、および翌26日のサントリーホールでの公演のいずれもが早々に売り切れてしまったのだ!

私は仕方なく、諦めていたところへ1通のメールが届いた。なんと僅かな枚数のチケットを売っているというのである!前日24日のお昼頃である。この時ほど在宅勤務の有難さを思ったことはない。さっそく昼休みに新日フィルのサイトへアクセスしたところ、赤坂の方は売り切れていたが、すみだの方は空席があったのだ!丁度妻も在宅勤務の日だったため、即彼女を誘い、2枚のチェットを入手することができた。S席1階の左端で悪くない。しかも会員だからか、eチケットだからかよくわからないのだが、少し割引もあった。

会場にはまず、マイクを持って佐渡自身が登場し、55年前の大阪万博の頃に来日したカラヤン&ベルリン・フィルと、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルのことについて話した。この時のプログラムは、カラヤンがベートーヴェン・チクルスだったのに対し(我が家にもプログラム冊子があった)、バーンスタインは当時まだあまり知られていなかったマーラーの交響曲第9番を演奏したとのことだった。小学生だった佐渡少年は、これをきっかけにマーラーに目覚めていった、云々について軽やかに喋った。

佐渡は京都生まれである。関西人として感じるのは、こういう時の京都人は(そうでなくても、かも知れないが)、あまり本心をさらけ出して心情を語るようなことはしない。むしろあえて何事もないかのように振舞う。しかしそこには並々ならぬ情熱が込められているかも知れないのだ。「80分を超えるかもしれないが、ゆったりとお楽しみください」とさりげなくプレトークを終えた彼は、一旦舞台から去り、チューニングのあと再び登場。振り下ろした指揮棒から流れてきた音楽は、実に自然で、気を衒ったところはなく、それでいて豊穣にして確信に満ちた足取りである。

カラヤンをして「大変疲れる」とさえ言わしめたこの難曲を、いともこなれた手つきで指揮する姿を見て、佐渡の指揮も円熟味を帯びてきたと感じたのだった。私はかつて、N響定期に初登場した「アルプス交響曲」や、新日フィルとのヴェルディの「レクイエム」を聞いたことがあったが、これらはいずれも90年代のことで、彼自身まだ若かった。まるでバーンスタインをコピーしたような身振りが印象的で、ちょっと音楽が上滑りしているときもあったように思う。だが、あれから30年近くが経過して聴く音楽は、より自然体であった。この難曲を軽やかに指揮することは、ものすごく難しいだろう。

ずっと同じような調子で流れている音楽が、惰性に陥ることなく、常に新しいフレーズに聞こえてくる。実際、この長い曲にあって、単純な繰り返しは一切存在しない。派手な打楽器や合唱こそ伴わないにもかかわらず、音楽の凝縮度は一貫して非常に高く、緻密である。両端にアダージョを配するという意外性もあって、長い曲を集中力を持って聞かせるのは並大抵のことではない。だがこの日の演奏は、それを実現していた。第2楽章の中盤以降に至ってオーケストラに自信がみなぎってきたことはよくわかった。第3楽章の後半での迫力は、この日の演奏のクライマックスだった。

長めの休止を経て流れ出る第4楽章の、豊穣にして繊細な音楽は、マーラー音楽の集大成である。ランプの灯が静かに消えていくように、最弱音が長く続くコーダを、これほどにまで見事に表現した演奏は私自身初めてだった(とはいうものの、この曲を実演で聞くのは3回目に過ぎないのだが)。おそらく興ざめだったのは、その最高に美しい瞬間に、若干の咳があったことだ(それも1回だけではない)。このことによってだろうか、手をおろした(佐渡は第4楽章ではタクトを持っていなかった)指揮のあとに沸き起こった拍手には、少し戸惑いが感じられた。もっと余韻に浸りたい気持ちと、早く拍手をしたい気持ちが交錯していた。あの咳がなければ、もっと落ち着いた拍手になったのではなかろうか。定期会員で占められた客席は、だれしもがこの難曲を知り尽くしているわけではない。

だが、そういう外的要因を別にすれば、最高位の水準にあった演奏だったと思う。翌日のサントリーホールの公演では、どのような演奏になっているのだろうかと想像する。それでも諦めていたこのコンサートに行くことができたのは幸運だった。音楽に完成度が増した佐渡裕の演奏に、これからはもっと頻繁に出かけたいと思った。

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