2025年9月24日水曜日

読売日本交響楽団第144回横浜マチネーシリーズ(2025年9月21日横浜みなとみらいホール、ケント・ナガノ指揮)

私はケント・ナガノという指揮者について、あまりよく知らなかった。実際、彼は日本のオーケストラをほとんど指揮したことはない。今回日本の常設オケに客演するには、1986年に新日フィルを指揮して以来の実に39年ぶりということだった。彼は日系アメリカ人3世であり、しかも奥様も日本人だという割には、日本での演奏機会が少なかったようだ。日本を避けてきたのだろうか、とさえ思っていた。

過去の彼のインタビューを聞くと、意見が非常に醒めていて冷たいという印象があった。カリフォルニア生まれの知識人らしく実にクールでドライ。だから音楽も、などと考えていた。私が所有していたCDはわずか2枚で、一つはリヨンの歌劇場のオーケストラを指揮したドリーブの「コッペリア」、そしてモントリオール交響楽団を指揮したベートーヴェンの「エグモント」と第5交響曲をカップリングした一枚である。これらの2枚のCDはとても素敵なので、愛聴盤でさえあるのだが。

そういうわけでこのたびの来日で読響を指揮すると分かった時も、実際どうしようかと迷った。プログラムは2種類あって、ひとつはマーラーの交響曲第7番。最も演奏機会の少なかったマーラーこの難曲が、最近はプログラムに上ることが多いが、私の場合さほど喜んで聞きたくなる曲ではない。一方、もう一つのプログラムは、シューベルトの「グレイト」交響曲である。「グレイト」は誰が指揮しようと聞きたくなる曲なので、私はこちらの方を選んだ。会場は横浜のみなとみらいホールの1回限りで、日曜日のマチネー。席はまだある。というわけで、秋風がようやく吹き始めた週末に私はひとり出かけることとなった。

桜木町で国電を下り、重慶飯店で期間限定のアヒルの玉子入り月餅餅を買う。そのあと長い歩道を歩いてみなとみらい地区へ。右手には日本丸とその向こうに遊園地が見える。この横浜ならではの光景は、やはり気分が変わっていいものだ。そしてビルの中に入ると、フィレンツェのジェラート屋があった。つまらないカフェでもコーヒー1杯500円するのは当たり前の昨今、ビールでも飲もうものなら軽く1000円近く取られるインフレ日本で、アイスクリームが税込み500円というのは安い。私もあのフィレンツェのアイスクリームは懐かしいから、ここでラズベリー入りのソーダを注文して時間を調整。横浜に来る楽しみがまた増えたことが嬉しい。横浜から直接みなとみらい線に乗ったのでは、ここには来られない。

会場のロビーから見えるコンベンション・センターの風景も、東京の他の会場では見えることがない風景である。そこで今度はビールを飲む。これも600円と良心的。このようにして上演前のひとときをプログラムを見ながら過ごした。このような贅沢な時間もまた、コンサートの一部である。

本日のプログラムは3つ。まず前半は野平一平の「織られた時IV〜横浜モデルニテ」という作品。世界初演だそうである。冊子によれば、近代化の象徴とも言える横浜の光景を音にして、前衛的な雰囲気も含めた作品と本人が解説している。教会の鐘の音に模したファンファーレで始まり、我が国初の鉄道や汽船の音などもモチーフになっているようだ。ナガノは8分余りのこの曲を丁寧に指揮、会場にいた作曲者も登壇して喝采を浴びていた。

続く曲はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番で、数あるモーツァルトのピアノ協奏曲には珍しい短調の曲である。このような曲を取り上げるのは、実力あるピアニストの意欲だろうか。そのピアニストはイタリア人のベネデット・ルポ、私は初めて聞く。もちろんこの曲も実演はおそらく初めて。ところが演奏が始まって驚いたのは、その音色の粒立ちの格調高い気品である。モーツァルトを弾くに相応しい確かなタッチと、ほとんど飾って見せないストレートな表現。すべての音符が考え抜かれ、理想的な強弱レベルで明晰に聞こえてくる。例えていえば、グルダに似ている、という感じだろうか(もっともグルダは録音でしか聞いたことがないのだが)。

第2楽章でのオーケストラは、そのピアノを側面から寄り添い、確かなリズムを刻む。席が良かったからかも知れないが、読響の音ももはやヨーロッパのレベルである。第3楽章のカデンツァに入る部分など惚れ惚れする響きは最後まで続き、同じように感じ入った聴衆も多かったに違いなく拍手も多い。何度もカーテンコールに応えてルポは、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾いた。これも惚れ惚れとする印象を残した。サービス満点の演奏だった。

休憩を挟んでのシューベルトは、「天国的に長い」とされる曲だが、いい演奏で聞くことになるといつまでも聞いていたいと思う曲に変身する。ところが今回の演奏時間の記載を見ると約48分と書かれていた。これは繰り返しを一切しないことを意味していると思ったが、実際そうであった。そもそもこの曲をすべて繰り返して演奏するには、演奏家によほど覚悟がないと難しいのだろうし、聴衆がそれについて来られるのかが気がかりである。実際、この曲の間中、いや前半でさえも、私の両隣のご婦人は終始居眠りをしておられる始末。いやそれだけではない、後方の席にいた拍手をいち早くする高齢男性も、演奏中は熟睡。いつ果てるともわからない音楽を生で聞きながら眠るのは、さぞ気持ちがいいに違いない。

ところがその演奏は、私はこれまで聞いたシューベルトの曲中、最高の部類に入る名演奏になったことは疑いがない。第1楽章から、そのバランスといい継続的な完成度といい、申し分がないだけでなく、オーケストラがすこぶる上手いと感じた。もしビデオ収録されていたら見てみたいが、どうもそういうこともなさそうで残念である。だがそこに居合わせた聴衆は、この演奏のレベルの高さを確信していた。終演後、間を置かずして圧倒的に盛大なブラボーが沸き起こったことも、そのことを示している。

読響の定期で、これほど大きな拍手を聞いたのは初めてである。そしてこの曲をここまでの完成度で、しかも長い時間維持し続けたことはちょっとしたものだ。特に私が一番注目している第3楽章のトリオの部分を、ナガノは十分な時間を保って演奏した。ここを中途半端に通り抜ける指揮者が多い中で、私は初めて理想的な演奏に巡り合った心境だった。CDでスタジオ録音されたものなら(例えばアバドの演奏)、ゆっくりと時間をかけてこれを理想的な演奏に仕上げることもできよう。しかし実演となると、なかなか難しいと思われる。そもそも長い曲を覚悟しているブルックナーの場合とは、ちょっと事情が異なる。

第4楽章のリズムが淡々と進みつつも気迫のこもった演奏は、次第にオーケストラも聴衆も熱を帯びて聞き入る。もっと長く聞いていたいと思う演奏になってゆく。それにしても読響の木管楽器の巧さが際立つ。まわりを見ると、皆さんまだ船を漕いでいる。熱を帯びた演奏家や一部聴衆と対照的なのが実に面白く愉快である。実は今、名古屋へと向かう新幹線「のぞみ」に乗って、昨日のコンサートを思い出しながらこの文章を書いているが、まるでその車窓風景のように快速に進む音楽が、とうとう終わりを迎えた時、割れんばかりの聴衆が指揮者を何度も舞台へ呼び戻し、それはオーケストラが退散しても続いたことは、言うまでもない。

最高の読響の演奏、最高のシューベルトの余韻を残しながら会場を後にしようとしたとき、何と「サイン会場」と書かれたプラカードを持った係員がいるではないか。聞くと「今日は特別のようです」とのことだった。私もプログラム冊子を持って行列に。インタビューで聞くナガノの醒めたコメントとは違い、こんなにも熱い演奏をする指揮者とは思わなかった。そして一人一人にサインをする指揮者とピアニストに、私は「これまで聞いた中で最高のシューベルトでした」と話しかけると、とても喜んで笑顔で答えてくれた。そういうわけで、これは忘れ得ぬコンサートになった。

帰りはみなとみらい駅で恒例の「シウマイ」を買って、そのまま電車へ。家から1時間とかからない横浜にも、これからは時々出かけたいと思った。このホールは、場所も座席の心地も音響も悪くはない。ただあの最前列席の目の前に張り巡らされた金属線が、舞台の視界をさえぎらなければもっと心地よいのに、と思った。

2025年9月20日土曜日

NHK交響楽団第2043回定期公演(2025年9月19日サントリーホール、ファビオ・ルイージ指揮)

今シーズンからN響の定期会員になった。定期会員になるのは1992年以来、34年ぶりのことである。丁度就職して東京に住み始めた頃で、思いっきり演奏会に出かけることができることが大いに嬉しかった。この年、9月から始まる新シーズンのNHKホールのチケットは、最安値がたしか1000円で、これは3階席後方(E席自由席)だった(この席は今では3000円になっているが、学生割引というのもある)。

私はまだ初任給をもらったばかりの新入社員だったが、同じ3階席の前方の席を確保した(D席3000円)。広いNHKホールに毎週のように通い、あまり聞くことのない曲も楽しんだ。満員になることはまずないから、席を移動してゆったりとすわり、時に睡魔に襲われるのもまた良いものだ、などと考えていた。当時、サントリーホールでの公演はなかった。

N響の定期会員だったのはこの1年だけだったが、その後もN響の公演にはしばしばでかけてきた。平均すると毎年数回は聞いている。そのほとんどがNHKホールでのもので、それも2階席かそれより後。1階席は中央に座らないとオーケストラを後方から眺める感じになるのが面白くないからだが、中央の席はすでに埋まっていることが多く、しかも高い。NHKホールの座席は狭く、両隣に人がいると窮屈な上、前の人の頭が視界を遮る。1階席からはオーケストラを見上げる位置になって、後方の演奏家が見えない。2階席なら全体が見渡せるが、そこはすでにかなり後方になってしまい、臨場感に乏しい。

とにかくNHKホールで聞くN響の演奏会は制約が大きく(しかも渋谷の繁華街を通らなければならないことが決定的につらい)、音響も悪いので最近はよほどいいプログラムでなければ敬遠しているのが実情なのだ。しかし、サントリーホールであれば、家からも行きやすい上に音響も良く申し分がない。本当はサントリーホールでN響を聞いてみたい。ところがこのサントリーホールでの定期公演は、毎回ほぼ売り切れ。すなわち定期会員だけですでに満員になってしまっている。その定期会員は、NHKホールの場合と違って1年更新だから、更新時期に合わせて1年分のチケットを買う必要がある。安い席やいい席は継続の会員に優先的に売り出されるから、さらにハードルは高い。

そういうわけでサントリーホールでのN響定期は、なかなか聞くことができないのである。しかもサントリーホールでの公演プログラムは、玄人好みの凝ったものが多いという特徴があって、招聘される指揮者の意欲的なプログラムとなっているのはいいのだが、いわゆる定番、あるいは名曲の類は巧妙に避けられており、それらはNHKホールでのプログラムに回されている、という次第である。

前置きが長くなったが、とにかく今シーズン(25~26シーズン)、私は意を決してサントリー定期の会員になった。これで来年6月までに開催される全9回の定期公演にS席が確保された。あとは毎回、何らかの事情で行けなくなる事態を回避しつつ(これが意外に多いのが、これまで定期会員を躊躇ってきた理由でもある)、月1回は金曜日(2回ある公演の2日目)に赤坂まで出向くことになった。今年、N響は99周年。なかなか意欲的なプログラムが並んでいる。先日はヨーロッパ・ツアーに出かけたばかりで、その模様はようやくテレビで放送された。

今回の公演は、そのヨーロッパ・ツアーにも同行した首席指揮者のファビオ・ルイージで、プログラムはまず武満徹の「3つの映画音楽」(これもヨーロッパ公演の演目)、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(独奏:マリア・ドゥエニャス)、それにメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」である。猛暑の今年は、いったいいつになったら秋が訪れるのだろうかと、もう諦めの境地で過ごしていた矢先、ようやく気温が下がった19日、サントリーホール前の広場には多くの屋台も出て、金曜日のオフィス街が賑わっていた。その合間を抜けて会場へと入る。いつものサントリーホールではあるが、どことなく行儀のいいN響の聴衆ですでに満席である。

最初の曲「3つの映画音楽」は弦楽合奏のみの曲である。武満が生涯にわたって作曲した映画音楽から「ホゼー・トレス」「黒い雨」「他人の顔」に使われた曲を編曲し、1つの管弦楽曲として構成したもの。私もCDを持ってはいるが、実演は初めてであった。私の座席はRCセクションの7列目で、オーケストラを斜めに見下ろす位置にあり、とてもいい。そこから聞くN響の音は、いつもNHKホールで聞くものとは全く違っていた。

特にそれを実感したのが、次のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。白いドレス姿で登場したドゥエニャスは初登場。まだ若い彼女は、しかしながらなかなかしなやかで音色も美しい。聞きなれた曲が、まるで初めての曲のように感じられるのは、N響を含めた音のバランスの良さ故だろうか。これまで聞いていたこの曲がいったい何だったのだろうかとさえ思った。私は公演前に飲んだワイン(サントリーの赤)のせいもあって心地よい睡魔に襲われ、しばしば夢見心地で長い第1楽章に酔いしれた。

注目すべきはそのカデンツァで、何と彼女は自前のそれを披露するではないか!この曲のカデンツァと言えば、だいたいヨアヒムのものと決まっており、私もしれしか聞いたことがない。ところが彼女は、そう、あとの第3楽章のものも含め、自前の、それも大変聴きごたえのあるカデンツァを聞かせたのである。何と言おうか、さほど技巧的でもなく、しかし斬新さがあって長い。それが自然に入り、静寂な聴衆の前で圧倒的な量感を持って奏でられ、そしてすっとオーケストラに溶け合ってもとに戻る時の得も言われぬ美しさは、今日のコンサートの白眉であった。

第2楽章の精緻な表現も見事で、特に後半の美しさは特筆すべきものだった。第3楽章で見せた迫力のあるロンドは、この曲の魅力を100%以上に引き出し、聴く者を興奮させていった。それにしてもN響の音は、さらにボリュームを増したかのようで、普段は大人しい聴衆も熱い拍手を送っていたが、今日の演奏会はマイク一本垂れておらず、テレビ収録されたのは前日のコンサートだったのだろうと思う。これは放送された時に再度見てみたい。

休憩を挟み、後半は「イタリア」交響曲のみ。30分1本勝負のアレグロを、ルイージはこれ以上にないくらいのスピードで演奏した。その迫力たるや、まるで上に向けた水道の蛇口から、天に向かって水がほとばしり出るようで、一糸乱れぬアンサンブルの極致と化したN響の演奏は、いまやヨーロッパの一流オーケストラにも比肩しうるものだと確信した。特にチェロとコントラバスによる低弦の響きは、かつて非力だった日本のオーケストラとは見違えるほどの充実ぶりで、第4楽章まであっという間の演奏。ただ速いだけのうわついたものではなく、木管が宙を舞い、ホルンが咆える。実演で聞くオーケストラの醍醐味である。

これまで幾度となく聞いてきたN響の演奏会なのに、このサントリーホールで聞く異常なほどの素晴らしさは、一体どういうことなのだろうか、と思った。いや白状すれば、サントリーホールでN響を聞くのはこれが初めてではない。とすればこれは指揮者による効果としか考えられない。ルイージという指揮者は、表現的にはやや無機的で、深い感銘を残すことがあまりない指揮者だが、音作りについては超1級品なのだろうと思った次第である。その良さがNHKホールでは拡散してしまうが、サントリーホールでは凝縮されて迫って来る。ルイージのコンサートはまだあと2回(11月、4月)あるし、他の指揮者とも聴き比べることができるのが楽しみである。

次回は早くも10月10日、ヘルベルト・ブロムシュテットが予定されている。御年98歳の指揮者を聞くことができれば、それだけで生涯の記憶に残るものとなるだろう。

2025年9月1日月曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(The MET Line in HD Series 2024-2025)

こう言うとオペラ好きの人から笑われそうだが、私はベートーヴェンの「フィデリオ」が大好きである。これまでに実演で2回、CDで4種類、DVDで2種類は見聞きしているだろう。その「フィデリオ」がMET Liveに登場するのは初めてである。待ちに待った感がある。もっとも日本での公開は5月頃だった。私が見るのは、夏休みに上演されるリバイバルになってしまった。忙しくて行けなかったからである。なお、ニューヨークでの公演(収録日)は、本年3月15日となっている。

「フィデリオ」の魅力は何と言ってもベートーヴェンの音楽そのものに尽きる。舞台はスペインの監獄で暗い。男装したレオノーレはフィデリオ(ソプラノのワーグナー歌手、リーゼ・ダーヴィットセン)と名乗って刑務所に侵入、そこの看守ロッコ(バスの重鎮、ルネ・パーぺ)の部下となり、夫であるフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)を救い出す、という救出劇。

第1幕には一応、男女の恋物語として看守の娘マルツェリーネ(中国人のソプラノ、イン・ファン)に言い寄るジャキーノ(テノールのマグヌス・ディートリヒ)との二重唱なども用意されてはいるが、音楽がベートーヴェンとしては未熟なものが多い。「あまり得意でないことをやっているな」という感じである。しかも今回のマルツェリーネはアジア人ということもあって、どうしても私などは「昭和のお姉さん」(つまり「サザエさん」)のようなムードを感じてしまい、やや興ざめ。とはいえ、私はこの無骨な音楽も大好きで、やはりベートーヴェンにしか書けないものを感じるのである。看守ロッコの上司である刑務所長のドン・ピツァロ(バス・バリトンのトマシュ・コニエチュニ)を含めた4人が第1幕を長々と演じるが、そのクライマックスは何と言っても、夫の身を案じて歌う長いレチタティーヴォとアリア「悪者よ、どこへ急ぐのか」である。ベートーヴェンは音楽を中心に据えて歌を書いたので、息継ぎも難しく、このアリアの難易度は相当なものである。

幕間の紹介によればダーヴィットセンは、双子を妊娠中の身だそうで、この公演を最後に育児休暇に入るそうだが、さっそく来年の「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデでカムバックするというから驚く。公演が終わった舞台裏の画像で、感極まって涙ぐむ彼女の姿は印象的だった。歌唱の方もさすがに見事だったが、私は第1幕の後半を、折からの猛暑の疲れも手伝って心地よい睡魔に襲われ、あまりよく覚えていない。指揮者は女性のスザンナ・マルッキ。人気はあるようだがどことなく平凡で、あのベートーヴェンの推進力が感じられないのは残念だった。

映像の前口上でゲルブ総裁が、この難しい時代に「フィデリオ」を上演することの意味を訴えていたが、実際にはこのプロダクション(演出:ユルゲン・フリム)は、随分前(一説では2000年頃)から上演されているらしく、古典的な舞台装置である。ロシアの捕虜収容所などでなくて良かったと思った次第。序曲は「フィデリオ」の序曲で、第2幕に「レオノーレ」第3番は挿入されなかった。

短いインターミッションの後、第2幕が始まった。私はこの第2幕の冒頭が気に入っている。ベートーヴェンが書いた最高の音楽のひとつではないかとさえ思う。それがひとしきり演奏されると、いよいよフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)が登場、「神よ!」と叫ぶシーンがこのオペラの真骨頂である。ここから続く長大なアリアは、最大の聞き所の一つである。透明なテノールの響きも含め、このオペラの不思議なところは、舞台が常に暗黒であるにもかかわらず、音楽がむしろ陽気であることだ。それこそベートーヴェンのベートーヴェンらしいところではないだろうか。

従って遂にレオノーレとフロレスタンが再会し、そこに居合わせるロッコとドン・ピッアロを含めた4人によるやりとりは、有名なレオノーレのメロディーや「勝利のファンファーレ」を含め、大いに盛り上がってゆく。緊張感が増すというよりは、ドラマの域を超えてオラトリオと化してゆくのが面白い。ただ、私はマーラーが始めた序曲「レオノーレ」第3番の挿入が、どうしても欲しいと思うので、司法長官ドン・フェルナンド(バスのスティーヴン・ミリング)が水戸黄門のように登場し、勧善懲悪の大団円を迎えるまでのひと時を、間奏曲のように待ちたい気持ちが強い。舞台も急に明るくなって、ここから長大かつ壮大なフィナーレに入るのだが、その前の「溜め」が欲しくなるのである。だが、最近はそういう演出は減ってしまった。

マルッキの指揮も第2幕は調子が良く、高らかに歌い上げられる自由と愛への賛歌に、会場からは惜しみない拍手が送られていた。この音楽は誰がどう演奏しても、ベートーヴェンにしか表現できない音楽とストーリーである。世の中の正義が揺らいでいる今の時代にあって、このような渾身の音楽を聞くと、胸が熱くなる。私はビデオ上映のオペラで涙を流すことは滅多にないが、約1年ぶりのMET Liveでベートーヴェンの感動的な音楽に、改めて心を動かされたのだった。

チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64(エフゲニ・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団、1990年)

今年は10月に入って、ようやく長い夏が終わりそうである。秋の夜長に音楽を聞く楽しむ期間は、年々短くなっている。しかし今年は、いよいよSpotifyがロスレス配信を開始したことにより、私のオーディオ環境にも変化が生じた。WiiMという新しいネットワークオーディオ機器を購入し、昨年新...