今シーズンからN響の定期会員になった。定期会員になるのは1992年以来、34年ぶりのことである。丁度就職して東京に住み始めた頃で、思いっきり演奏会に出かけることができることが大いに嬉しかった。この年、9月から始まる新シーズンのNHKホールのチケットは、最安値がたしか1000円で、これは3階席後方(E席自由席)だった(この席は今では3000円になっているが、学生割引というのもある)。
私はまだ初任給をもらったばかりの新入社員だったが、同じ3階席の前方の席を確保した(D席3000円)。広いNHKホールに毎週のように通い、あまり聞くことのない曲も楽しんだ。満員になることはまずないから、席を移動してゆったりとすわり、時に睡魔に襲われるのもまた良いものだ、などと考えていた。当時、サントリーホールでの公演はなかった。
N響の定期会員だったのはこの1年だけだったが、その後もN響の公演にはしばしばでかけてきた。平均すると毎年数回は聞いている。そのほとんどがNHKホールでのもので、それも2階席かそれより後。1階席は中央に座らないとオーケストラを後方から眺める感じになるのが面白くないからだが、中央の席はすでに埋まっていることが多く、しかも高い。NHKホールの座席は狭く、両隣に人がいると窮屈な上、前の人の頭が視界を遮る。1階席からはオーケストラを見上げる位置になって、後方の演奏家が見えない。2階席なら全体が見渡せるが、そこはすでにかなり後方になってしまい、臨場感に乏しい。
とにかくNHKホールで聞くN響の演奏会は制約が大きく(しかも渋谷の繁華街を通らなければならないことが決定的につらい)、音響も悪いので最近はよほどいいプログラムでなければ敬遠しているのが実情なのだ。しかし、サントリーホールであれば、家からも行きやすい上に音響も良く申し分がない。本当はサントリーホールでN響を聞いてみたい。ところがこのサントリーホールでの定期公演は、毎回ほぼ売り切れ。すなわち定期会員だけですでに満員になってしまっている。その定期会員は、NHKホールの場合と違って1年更新だから、更新時期に合わせて1年分のチケットを買う必要がある。安い席やいい席は継続の会員に優先的に売り出されるから、さらにハードルは高い。
そういうわけでサントリーホールでのN響定期は、なかなか聞くことができないのである。しかもサントリーホールでの公演プログラムは、玄人好みの凝ったものが多いという特徴があって、招聘される指揮者の意欲的なプログラムとなっているのはいいのだが、いわゆる定番、あるいは名曲の類は巧妙に避けられており、それらはNHKホールでのプログラムに回されている、という次第である。
前置きが長くなったが、とにかく今シーズン(25~26シーズン)、私は意を決してサントリー定期の会員になった。これで来年6月までに開催される全9回の定期公演にS席が確保された。あとは毎回、何らかの事情で行けなくなる事態を回避しつつ(これが意外に多いのが、これまで定期会員を躊躇ってきた理由でもある)、月1回は金曜日(2回ある公演の2日目)に赤坂まで出向くことになった。今年、N響は99周年。なかなか意欲的なプログラムが並んでいる。先日はヨーロッパ・ツアーに出かけたばかりで、その模様はようやくテレビで放送された。
今回の公演は、そのヨーロッパ・ツアーにも同行した首席指揮者のファビオ・ルイージで、プログラムはまず武満徹の「3つの映画音楽」(これもヨーロッパ公演の演目)、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(独奏:マリア・ドゥエニャス)、それにメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」である。猛暑の今年は、いったいいつになったら秋が訪れるのだろうかと、もう諦めの境地で過ごしていた矢先、ようやく気温が下がった19日、サントリーホール前の広場には多くの屋台も出て、金曜日のオフィス街が賑わっていた。その合間を抜けて会場へと入る。いつものサントリーホールではあるが、どことなく行儀のいいN響の聴衆ですでに満席である。最初の曲「3つの映画音楽」は弦楽合奏のみの曲である。武満が生涯にわたって作曲した映画音楽から「ホゼー・トレス」「黒い雨」「他人の顔」に使われた曲を編曲し、1つの管弦楽曲として構成したもの。私もCDを持ってはいるが、実演は初めてであった。私の座席はRCセクションの7列目で、オーケストラを斜めに見下ろす位置にあり、とてもいい。そこから聞くN響の音は、いつもNHKホールで聞くものとは全く違っていた。
特にそれを実感したのが、次のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。白いドレス姿で登場したドゥエニャスは初登場。まだ若い彼女は、しかしながらなかなかしなやかで音色も美しい。聞きなれた曲が、まるで初めての曲のように感じられるのは、N響を含めた音のバランスの良さ故だろうか。これまで聞いていたこの曲がいったい何だったのだろうかとさえ思った。私は公演前に飲んだワイン(サントリーの赤)のせいもあって心地よい睡魔に襲われ、しばしば夢見心地で長い第1楽章に酔いしれた。
注目すべきはそのカデンツァで、何と彼女は自前のそれを披露するではないか!この曲のカデンツァと言えば、だいたいヨアヒムのものと決まっており、私もしれしか聞いたことがない。ところが彼女は、そう、あとの第3楽章のものも含め、自前の、それも大変聴きごたえのあるカデンツァを聞かせたのである。何と言おうか、さほど技巧的でもなく、しかし斬新さがあって長い。それが自然に入り、静寂な聴衆の前で圧倒的な量感を持って奏でられ、そしてすっとオーケストラに溶け合ってもとに戻る時の得も言われぬ美しさは、今日のコンサートの白眉であった。
第2楽章の精緻な表現も見事で、特に後半の美しさは特筆すべきものだった。第3楽章で見せた迫力のあるロンドは、この曲の魅力を100%以上に引き出し、聴く者を興奮させていった。それにしてもN響の音は、さらにボリュームを増したかのようで、普段は大人しい聴衆も熱い拍手を送っていたが、今日の演奏会はマイク一本垂れておらず、テレビ収録されたのは前日のコンサートだったのだろうと思う。これは放送された時に再度見てみたい。
休憩を挟み、後半は「イタリア」交響曲のみ。30分1本勝負のアレグロを、ルイージはこれ以上にないくらいのスピードで演奏した。その迫力たるや、まるで上に向けた水道の蛇口から、天に向かって水がほとばしり出るようで、一糸乱れぬアンサンブルの極致と化したN響の演奏は、いまやヨーロッパの一流オーケストラにも比肩しうるものだと確信した。特にチェロとコントラバスによる低弦の響きは、かつて非力だった日本のオーケストラとは見違えるほどの充実ぶりで、第4楽章まであっという間の演奏。ただ速いだけのうわついたものではなく、木管が宙を舞い、ホルンが咆える。実演で聞くオーケストラの醍醐味である。
これまで幾度となく聞いてきたN響の演奏会なのに、このサントリーホールで聞く異常なほどの素晴らしさは、一体どういうことなのだろうか、と思った。いや白状すれば、サントリーホールでN響を聞くのはこれが初めてではない。とすればこれは指揮者による効果としか考えられない。ルイージという指揮者は、表現的にはやや無機的で、深い感銘を残すことがあまりない指揮者だが、音作りについては超1級品なのだろうと思った次第である。その良さがNHKホールでは拡散してしまうが、サントリーホールでは凝縮されて迫って来る。ルイージのコンサートはまだあと2回(11月、4月)あるし、他の指揮者とも聴き比べることができるのが楽しみである。次回は早くも10月10日、ヘルベルト・ブロムシュテットが予定されている。御年98歳の指揮者を聞くことができれば、それだけで生涯の記憶に残るものとなるだろう。
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