「くるみ割り人形」のような、いわゆる古典的なバレエには他にも数多くの作品があるが、そのようななかでも最も古い代表的なものがアダンの「ジゼル」である。「ジゼル」はバレエ音楽としては有名な曲であるにもかかわらず、録音はそう多くない。あったとしてもバレエ音楽をもっぱらとするような指揮者やオーケストラによる演奏が中心で、管弦楽曲としてしっかり楽しむにはやや力不足という感じがしていた。ところがあのカラヤンが、何とウィーン・フィルを指揮してこの曲の録音を残しているではないか。1961年というから相当古いが、この年代に専属契約していたウィーン・フィルの一連の録音を担当したプロデューサーは、あのカルショウ(デッカ)である。
私は初めてこの曲の演奏をカラヤンで聞き、そしてにくいほどにツボを押さえた音楽に聞き惚れてしまった。音楽を活かすも殺すも指揮者次第であることをこの演奏ほど思い起こさせるものはない、とさえ思ったのだ。ところがその後、私はこの演奏をどこかになくしてしまい、長年、ジゼルの演奏からは遠ざかっていた。できればもっと新しい録音で、いい演奏はないものか、と思ってもいたのでカラヤンのCDを買う気も起こらず、そのままとなっていた。
あるとき新宿のレコード屋を覗いてみたら、アダンの棚にネヴィル・マリナーの指揮するアカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズの演奏する録音があることに気づいた。90年台のデジタル録音であるにもかかわらず、そのCDはたったの680円だった。最初リリースされたCaproiccioレーベルではなく、そこから版権を買い取ったBrilliant Classicsからのリリースで、それがこの安さの理由だが、マリナーの演奏なので悪かろうはずはなく、私はとうとうそれを買い求め、日夜iPodに転送して聞くことになった。
マリナーで聞く「ジゼル」は、十分な演奏であった。イギリス系の指揮者らしくストレートな表現は、音楽を味わうには今ひとつスパイスが足りないような気がするのだが、その不足感がなぜか良くて最後まで聴き通し、もう少しこうだったらいいのになあ、などと思いながらもう一度聞く、ということがよくある。地味というには演奏が立派だし、かと言って過剰な装飾は一切ない。そうか、この曲はこんな曲だったか、などと思いながら聞いていたら、逆にカラヤンの演奏を再び聞いてみたくなった。
久しぶりに聞くカラヤンの演奏は、ほとんどマリナー盤と抜粋された音楽は同じなのだが、よくよく聞いてみると少し楽譜が異なるような気がする。カラヤン盤はトライアングルなどが入ってきて、とてもきらびやかなのである。これに彼一流のシンフォニックな表現と、アナログ録音の感触が加わり、なぜか大変チャーミングな演奏になる。ギャロップやワルツが始まると、何かウィンナ・ワルツを聞いているような感じである。それはそれで大変ステキなのだが、ではこれが「ジゼル」かどうかはわからない。
私はバレエというものに疎いので、実際踊るとすればどちらがいいのかも検討がつかない。そして決定的に素晴らしいと思っていたカラヤン盤が、何度目かのリスニングでどこかしらけたような気分になってしまったのである。わざとらしい、というほどでもないが、何か曲の深みの限界が露呈するというか、そのような演奏なのである。これに対してマリナーの演奏は、曲本来の姿で表現している。そのことが好ましいと思える時が、あるのだ。これがリヒャルト・シュトラウスの音楽なら、カラヤンの圧勝だろう。すべてにおいて飾りが施され、それをそうとわかってアーティスティックに演奏する技術に依存する割合がとても大きいからだ。だが19世紀はじめのパリの作曲家は、まだそのような時代に生きていたわけではなかった。ここで表現される音楽は、もう少し素朴な魅力を湛えている。
結婚前に死亡した花嫁の亡霊が、妖精となって新郎の前に現れ、彼が死ぬまで踊り狂うという、何とも恐ろしいストーリーも、何度も出てくるパ・ド・ドゥの親しみやすいメロディーとワルツで楽しい。マリナーを聞いて時々カラヤンにも手を伸ばす。カラヤンは捨ててしまうにはあまりに勿体無いが、それだけで十分かと言われると、今となってはもう一枚欲しい、ということに結果的にはなってしまった。
久しぶりに聞くカラヤンの演奏は、ほとんどマリナー盤と抜粋された音楽は同じなのだが、よくよく聞いてみると少し楽譜が異なるような気がする。カラヤン盤はトライアングルなどが入ってきて、とてもきらびやかなのである。これに彼一流のシンフォニックな表現と、アナログ録音の感触が加わり、なぜか大変チャーミングな演奏になる。ギャロップやワルツが始まると、何かウィンナ・ワルツを聞いているような感じである。それはそれで大変ステキなのだが、ではこれが「ジゼル」かどうかはわからない。
私はバレエというものに疎いので、実際踊るとすればどちらがいいのかも検討がつかない。そして決定的に素晴らしいと思っていたカラヤン盤が、何度目かのリスニングでどこかしらけたような気分になってしまったのである。わざとらしい、というほどでもないが、何か曲の深みの限界が露呈するというか、そのような演奏なのである。これに対してマリナーの演奏は、曲本来の姿で表現している。そのことが好ましいと思える時が、あるのだ。これがリヒャルト・シュトラウスの音楽なら、カラヤンの圧勝だろう。すべてにおいて飾りが施され、それをそうとわかってアーティスティックに演奏する技術に依存する割合がとても大きいからだ。だが19世紀はじめのパリの作曲家は、まだそのような時代に生きていたわけではなかった。ここで表現される音楽は、もう少し素朴な魅力を湛えている。
結婚前に死亡した花嫁の亡霊が、妖精となって新郎の前に現れ、彼が死ぬまで踊り狂うという、何とも恐ろしいストーリーも、何度も出てくるパ・ド・ドゥの親しみやすいメロディーとワルツで楽しい。マリナーを聞いて時々カラヤンにも手を伸ばす。カラヤンは捨ててしまうにはあまりに勿体無いが、それだけで十分かと言われると、今となってはもう一枚欲しい、ということに結果的にはなってしまった。
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