2012年11月10日土曜日
ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」(The MET Live in HD 2012-2013)
ロッシーニの出来損ないで、ヴェルディほどのドラマ性もなく中途半端、「愛の妙薬」では「人知れぬ涙」だけが突出して聞きどころのオペラ。これが私がかつて抱いていたドニゼッティに対する見方であった。しかしこれまでに聞いた「ランメルモールのルチア」で悲劇的なオペラ作曲家としての側面に接し、オペラ・ブッファでは「連隊の娘」の何とも庶民的でほのぼのとした喜劇に腹を抱え、そして野心作「アンナ・ボレーナ」に至っては主演のネトレプコの大名唱もあって、まるでヴェルディ初期の趣(というよりもヴェルディが参考にしたであろうイタリア・オペラのドラマ性への傾向)に触れると、私のドニゼッティ感は修正を余儀なくされた。というよりこれは大きなショックでさえあった、というべきだろう。
そのドニゼッティの代表的なオペラ「愛の妙薬」がとうとうThe MET in HDシリーズに登場することとなった。しかも2012-2013シーズンの幕開けを飾り、初演出というから力が入っている。私も一度、この美しい歌に満ち満ちた作品をきっちりと見てみたいと思っていたので、今シーズンの始まりに次第に浮き足立ち、その日は朝から緊張状態であった。前日からこじらせた風邪で少し体調も悪く、咳が出るとあってははたして万全のコンディションで挑めるだろうか、などと過剰な心配もしながら、開演1時間半も前に東劇に到着しチケットを買い求めた。今作品は1日2回の上演であるにもかかわらず結構な客の入りで、年々この企画の人気が広まっているように感じる。
演出のバートレット・シャーは、デヴォラ・ボイトによる刺激的なインタビューでも答えているように、この作品を喜劇的な側面よりは恋愛ドラマとしての側面をむしろ強調することにより、作品が持つ現実性を浮き彫りにしようとした。勇気がなくて愛の告白をすることができない純情青年と、それを知りつつも男を挑発してしまう強がりの女性。どこにでもあるような青春ドラマは、19世紀のイタリアの小さな村を舞台に展開する(原作ではバスク地方)。
ここに登場する人物はみな愛すべき性格を持っている。素朴な村の住民は純情で他愛ない。一見してそうとわかるいかさま行商人のドゥルカマーラが、何にでも効く薬があると言って売りつけようとしても、その効果を信じて疑わないところに、それは現われている。しっかりもので知的なアディーナでさえ、「トリスタン」の物語に出てくる媚薬を存在を信じたくて仕方がないのである。主人公モネリーネは、そのようなアディーナが気になって仕方がない。どんな出来事も惚れた女性の仕草に照らして悩む恋の病の表情は、確かに喜劇の題材にはぴったりだが、誰にも経験のある現実の滑稽さでもあるのだ。
そういうわけでこの歌劇は、バレエもなければコロラトゥーラを多用する歌のための劇でないにもかかわらず人気があり、ほのぼのとした味わいを持っている。喜劇として笑い飛ばしてだけ楽しむには勿体無いということだろう。主演のアンナ・ネトレプコは、しっかりものの女性としての貫禄と、素朴な村の娘としての側面(それは彼女のロシア人としての性格にも依るのかも知れないが)を併せ持ち、しかも美しいのでこの役にはぴったりである。だが彼女はもっと難しい役をもこなす歌手なので、ここではまず難なく歌っているということだろうか。
一方のテノール、マシュー・ポレンザーニは表情が固く、この役にはやや知的過ぎる。喜劇性を重んじるなら、もっと脳天気な歌い方のハイCテノール(というえばかつてのパヴァロッティ、いまではフローレスか)を思い浮かべるのだが、喜劇性を抑えた演出では彼の演じ方もまたありなのだ。そればかりか歌はたしかに良く、「人知れぬ涙」では満場のブラボーをさらっていたし、その後から幕切れまでの間は、ベストの出来栄えであったというべきだろう。
兵士ペルコーレを演じたマリウシュ・クヴィエチェンは可もなく不可もなくということだが、最後に特筆すべきは行商人ドゥカマーレを歌ったアンブロージョ・マエストリの、堂々として役柄にピタリとはまったその演技と歌であった。彼の登場がなかったら、このオペラはもっとつまらないものになっていただろう。第1幕第2場の登場のシーンや、第2幕の全体にわたって要所要所で登場するいかさま行商人こそが、この作品の成功を良い方向にも悪い方向にも増幅する役割を果たす。そして今回の彼の登場は、もっとも良い方向へと物語を色づけることに成功した。
指揮はベニーニで、確かな手応え。見応え充分なこのMetの新演出が、かつてバトルやパバロッティを配して上演された80年台の記録的名演に迫るものとなったか、どうか・・・。
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