2012年11月26日月曜日
国鉄時代の鉄道旅行:第7回目(1984年3月)②
早朝の長岡駅には4時台に到着したのではないかと思う。「トンネルを抜けると雪国であった」というあの上越線を、私たちの列車は通り抜けた。三国峠を越え、2つものループを通るのも夢の中であった。だが長岡駅につくとそこは雪の中だった。3月の新潟は、当時はまだ深い雪に覆われていた。
長岡駅は開通したばかりの上越新幹線のホームも併設されていて、新しく立派な駅だった。東三条で弥彦線に乗り換え、燕三条の駅が真っ白な雪の田んぼの真中に忽然と姿を表した時には、びっくりした。このような田園の真ん中にそぐわない巨大な駅がそびえていたのである。しかし弥彦線は短いローカル線だった。対照的な短い駅を過ぎると、弥彦駅に到着した。弥彦山への参拝客のための駅だった。特徴的な駅舎の前で写真を取ると、今度は越後線で柏崎へと向かう列車の乗り込んだ。
越後線の列車は大変混雑していて、私も睡魔に襲われたので何も覚えてはいない。雪深い線を静かに走っていた。外は寒いがディーゼル車の中は大変暑かった。
3月の新潟へは2回目の鉄道旅行で訪れているが、その時もかなりの雪の中だった。当時はまだ暖冬の冬が続く90年台以降とは違っていた。特に長岡周辺は豪雪地帯で、何メートルもの雪に閉ざされるのが普通だった。列車はよく遅れなかったと思う。直江津で関西から来た列車とすれ違った。特急列車は雪で真白だった。
北陸本線は日本海岸を走って行った。夜行の特急列車が朝になると普通列車となる区間があった。寝台にもなる特急車両に追加料金無しで乗ることができるので、私たちは嬉しかった。雪で覆われた小さな駅の向こうに日本海が見えた。寒々とした光景は今でもよく覚えている。トンネルの中にも駅があった。とにかく黒部までの区間は険しい山の連続だった。親不知という名前の名所も、断崖絶壁を塗って走る区間を超えたところにあった。
富山での乗り換え時間はわずかで、今度は高山本線の乗客となった。高山までの区間、富山県と岐阜県との県境を神通川に沿って登るこの区間ほど、ローカルな区間はない。神岡線といった今では配線となった線もこのあたりである。何メートルもの雪に閉ざされる区間を、ディーゼルはゆっくりと静かに走っていた。
高山を過ぎると勾配を下る線路から雪が消えた。まだ寒いが、冬を越した山間の田畑は、春を静かに待っているように思えた。陽が傾く頃、カタコトと走る列車の音に合わせて私たちはその日何度目かの睡眠に入った。春の太平洋と冬の日本海を行ったり来たりする2日間は、このようにして過ぎていった。ただここから大阪へはまだ、何時間も乗り継がなくてはならなかった。
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