2013年5月20日月曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(2013年5月19日新国立劇場)

去る5月19日に新国立劇場で行なわれた新演出による歌劇「ナブッコ」のプレミア公演について、以下に感想を書こうと思う。当然ながら、どのような舞台、演出だったかを書くことになるので、これから出かけて楽しもうと思っている向きには、その種明かしとなってしまう。そのことを最初に断って置く必要がある。そうというのもこの演出は、グラハム・ヴィックがこの東京での公演のために考えたプロダクションで、他の都市では見られないものだという触れ込みだったからである。

ヴェルディが28歳の時に作曲した3作目の歌劇「ナブッコ」は、旧約聖書の「バビロン捕囚」に基づいた物語である。舞台となるエルサレムやメソポタミアには、砂漠を切り開いて岩を重ねたような神殿があって、そこに暮らす2つの民族の対立を描いている。 当然ながら薄暗く、ゴツゴツとしたセットに大勢の民衆や司祭などが登場する。神殿の階段の上には、神を祀った偶像がそびえ、絶対的な権威を誇る・・・、というのが従来の筋書きである。ところが、実はここは、現代アジアのある都市の、どこにでもあるショッピング・センターだったとしたら?

開幕前に客席に入ったとたん、戸惑った。客席のはずなのに、向こう側にはお店とそこに出入りする人々、エスカレータまでもが見えている。なんで隣の建物が見えているの?と思ったのは私だけではないだろう。幕が開く前の舞台にはすでに人が大勢居て、ブランド物のショッピング・バッグなどを片手に携帯電話を操作したり、新聞を読んだりしている!開幕30分前にはすでにこのような状態で、舞台に向って座るのが何とも奇妙な感じだった。

私の座った座席の後の列には、演出を担当したヴィック氏がいて、サインなどに応じている。そこを通って席につくと、開演前のアナウンスなどが普通に流れ、やがて長身の指揮者、パオロ・カリニャーニが登場した。演出家も指揮者も新国立劇場初登場とのことである。カリニャーニはすでに「ナブッコ」 の各地での演奏で好評だが、日本人には馴染みが薄い。

珍しく歌劇「ナブッコ」には序曲がある。有名な「行け、我が思いよ」のメロディーも登場するこの序曲は、大変に充実した素晴らしいものだ。台本通りならここでオーケストラの演奏に聞き入り、開幕までの十数分を興奮して待つところだが、すでに舞台上では演技が始まっている。これは最近の流行だろう。大勢の買い物客がエスカレータを上下に行き来したり、各テナント(の中には梨をかじったマーク入りのパソコン・ショップもあって、iCarly風!)では店員が掃除や客の相手などをしている。客は並んだり服を広げたりと、音楽に合わせて踊る。

序曲に続いて私の大好きな合唱曲が一気に鳴り響く。新国立劇場の合唱団は、この合唱の多いオペラにうってつけで、私がこの公演を聞きたいと思った理由のひとつがこの合唱団であった。私の持つCDには「祭りで晴れ着がもみくちゃに」と訳されていたが、ここはヘブライ人が歌う「祝祭の聖具は落ちて壊れるがいい」と普通は言う。

ここの合唱で女声が歌うシーンになると、私はヴェルディがこのオペラに込めた乾坤一擲の野心を思わずには居られない。ふたりの娘と妻を相次いで亡くしたヴェルディは、2作目のオペラ「一日だけの王様」も最悪の不評に終わり、もはや作曲を続けることを諦めかけていた・・・という伝記のくだりである。ヘブライ人の祖国への思いは、やがて統一運動を発展させるイタリア人の心にも呼応する、というのがこの作品の一般的な解説だが、さらには一発逆転を狙うヴェルディ自身の気持ちの現われではないか、と思うのだ。

合唱に混じって登場するのはジーンズを履き「この世の終わりは近い」プラカードをクビから下げた司祭のザッカリーア(コンスタンティン・ゴルニー)と、人質のフェネーナ(谷口睦美)だが、しばらくザッカリーアの歌が続く。いずれもカヴァティーナを伴う番号オペラの典型のような進み方で、ベッリーニやドニゼッティの流れを踏襲しているが、その音楽ははちきれんばかりに力強く、カンタービレはほれぼれするような美しさである。

一方本作品ただ一人のテノール、イズマイーレは樋口達哉で、フェネーナとの脇役カップルは日本人同士だが、どうしてこれがなかなか上手い。特にフェネーナは、私がアビガイッレの次に上手いと思った今回の歌手陣であった。

ショッピングセンターに乗りこんで来た連中は、いわばテロリストの集団で、そのボスは国王ナブッコだが、その前に娘のアビガイッレが登場しここを占拠する。ところがサングラスをかけ、成り上がり金持ち風の太ったおばちゃんアビガイッレは、実はイズマイーレに好意を抱くあたりが、何とも奇妙なストーリーではある。

ドラマチックなアビガイッレを歌ったのはメゾ・ソプラノのマリアンネ・コルネッティで、彼女は3月の「アイーダ」でアムネリスを歌っている。彼女の歌声は、低音から高音に行ったり来たり、この難易度の高い役をこなせる数少ない歌手のひとりであろう。アムネリスの時とは違い、登場していきなり低音を轟かせなくてはならない。だが、彼女はグラマーな買い物客に扮して存在感は抜群であった。

第1部の終盤のエネルギーも醒めやらぬうちに、アビガイッレが出生の秘密を知る第2部へと進み、ここで有名なアリア「かつて私も喜びに」と歌う。拍手が鳴り響くと今度は、弦楽四重奏を思わせる静かなメロディーへ。後年ヴェルディが様々な局面で応用した数々の音楽的な試みは、「ナブッコ」でもすでに明らかである。第2幕の終わりの最大の見どころは、雷のシーンである。 ナブッコは自分こそが神だと言う態度に出ると、神の怒りに触れて落雷を受けるのだ。舞台は一瞬暗くなり、電光と雷鳴が轟いた。

この作品では休憩が1回であった。私はスパークリング・ワインで喉を潤し、バルコニーに出て風にあたった。興奮した観客が話し合う声も聞こえた。そう言えばナブッコの事を書いていなかった。今回のナブッコ役は、イタリア人のルチオ・ガッロであった。登場した時には、少し貫禄に欠け、舞台上のどこにいるのかもわかりにくかった。だが、第3部に入ると徐々に存在感を増していった。

ショッピング・センターを占拠したテロリストを率いるナブッコは、落雷の結果、頭がおかしくなってしまった。愛する娘のフェネーナを助けたいあまり、もう一人の娘で奴隷の子でもあるアビガイッレに助けを求める。彼女は今や、ナブッコに謀反を企てた結果、テロリストを率いているのだ。だが、彼女は人質をすべて殺すというのだ。人質の中に、改宗した娘フェネーナがいることを発見する父。ここの父と娘、すなわちナブッコとアビガイッレの二重唱は、この作品最大の見どころである。父と娘の関係を、私はよく知らない。私の子は男の子であり、私にも女兄弟がいないからだ。娘を持つ父親の心境を、今や一人の等身大の人間となったナブッコが歌うあたりは、「リゴレット」にも登場する興味のつきないテーマだが、よく考えてみればこのオペラには、愛の二重唱にも乏しく、女性受けするストーリーではないのかも知れない。そのことが、このオペラがあまり上演されない原因のひとつではないか、などと考えた。

それにしても絶対神をめぐる民族の対立との中で揺れる葛藤の物語は、もともとわかりにくい側面があることに加え、ショッピング・センターで歌われることによって、さらに混乱させてしまう結果となったのではないか。どのような意図でこのような読み替え演出となったか、その成果があったかどうか。だが、そのようなことは音楽評論家に任せよう。この歌劇と演出の主題を知ることは重要なことだが、生の上演を見ることの唯一の目的ではない。お金を払い、勇んで出掛けた身としては、むしろこのような野心的な演出に接することが出来て、それだけで大変嬉しい。

第3部の終盤で歌われるこのオペラの白眉「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」は、一呼吸おいて歌われるものと思っていた。だが指揮者はほとんと続けてこの合唱に入った。階段やエスカレータに並んだ合唱団は、蛍光灯で薄暗い中でこの歌をうたう。やや不気味で、照明効果に疑問が残る。いっそもっと暗いところで(非常灯だけを灯したような中で)歌っても良かったのではないだろうか。合唱は上手く、最後は静寂の中に消え入ったが、アンコールされることはなかったのは当然と言うべきか。だが私の隣にいた初老の紳士は、序曲の時から眠りに入り、次第に落ち着きがなくなって、ここの合唱では息が荒くなるという許すべからざる出来事が生じていた。この人はとうとう最後まで、一切拍手をするということがなかった。ナブッコを襲った雷は、この人にこそ落ちるべきであった。

キューピーの頭が崩れ落ちる偶像ということになっていて、ここまでくると皮肉というものだろう。私の小学生の息子は、会場2階にあるキッズ・ルームで過ごしたが、ここには舞台のモニターがあった。彼は私が迎えに行くなり、なぜキューピーが出てきたのかと質問した。「オペラでは時々おかしなことが起こるのだ」と、言っておいた。

ナブッコは神を捨て改宗してでもフェネーナを助けようとする。いよいよ処刑が近づくとき、彼はユダの神に祈り、そのことによって救われる。アビガイッレも懺悔の歌を歌いながら死に絶える。 幕切れでアカペラとなって歌手と合唱団が歌う天国的なメロディーの部分で、大きな身振りをするカリニャーニの集中した指揮ぶりも大変素晴らしかったが、全体を通して東フィルもそのような指揮に十分答えていた。このオーケストラがこれほど上手いと感じたことはなかった。団員はこの奇抜な公演に接することが嬉しかったのだろうと思った。とにかく力が入っていた。

カーテンコールでひときわ大きく長い拍手を受けたのはコルネッティで、次が合唱団。個人的には第4部でも綺麗な歌声聞かせたを谷口睦美が気に入った。演出家のヴィックも舞台に登場したが、1階で聞く限りブーイングもなく、かといって盛大な拍手というわけでもなかった。日本人の聴衆は、このような現代的な読み替え演出にどう応じていいのか、やや混乱していたのかも知れない。それでも好意的に拍手を送るのは、日本人の奥ゆかしさだろうか。

とても変わっていたが、最高にエキサイティングな時間があっという間に過ぎ去った。機会とお金があれば舞台をもう一度見てみたいと思う。そしてこれはずっと心に残るであろう。 そう言えば開演前、会場前の広場で税金の無駄遣いを訴えるデモがあった。だがオペラとはもともと採算度外視の代物である。税金が無駄に使われている、と言われても、誠にその通りであると言うほかないではないか。



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