2013年5月25日土曜日

読売日本交響楽団特別演奏会(2013年5月24日、東京芸術劇場)

ユーリ・テミルカーノフを指揮者に迎えて、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」とストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラムを、池袋の東京芸術劇場へ聞きに行った。B席の当日券4000円は妥当な額である。それが手に入った。この日はThe MET Live in HDシリーズの今シーズン最終日でヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ」を見る予定だったが、東劇の開始時刻が18時と早く、仕事が終わったあとでは間に合わない。これに対し、池袋へは私の職場のある新宿から電車で15分程度の距離である。

ユーリ・テミルカーノフというロシア生まれの指揮者は、私にとって長年、思い出に残っていた指揮者であった。かつて一度だけ聞いた演奏会がとても良かったからだ。それは20年近く前の1996年、ニューヨークでのことだった。サンクト・ペテルブルグ・フィルを率いたコンサートがカーネギー・ホールで催され、私はマーラーの交響曲「巨人」を聞いたのだった。その時の演奏はかなり記憶が薄くなったが、とても感動したのを覚えている。このコンサートにはたまたま日本から出張できていた伯父が聞いていて、翌日突然電話をもらった私は、ホテルで会うと何とこのコンサートに出かけていたと聞かされたのだった。

偶然というのは恐ろしいもので、まさかニューヨークでのコンサートに親戚が来ていたということには驚いた。だがその時伯父(は私にクラシック音楽を間接的に教えてくれた人である)は、このコンサートをさほど高く評価しなかった。その理由はわからない。私もただ、あの旧レニングラード・フィルが聞けたことに感動していただけかも知れなかった。

この時からテミルカーノフという指揮者は、私に強烈な印象を残し、いつか機会があればもう一度聞いてみたいと思っていた。テミルカーノフは、かつてムラヴィンスキーが指揮していた旧レニングラード・フィルの指揮者としてそれなりに有名だった割りには、レコード録音は少なく、その活躍も日本にまでは及ぶことは少なかったようだ。だが2000年代に入り時々読売日本交響楽団を指揮している。その関係は、パンフレットによれば極めて良好で、厚い信頼関係にあるという。読売のオーケストラは私もかつてよく聞いていたので、久しぶりに出かけてみることにしたのである。

しかしチャイコフスキーは、私の思い出に残る過去のイメージを再現してはくれなかった。私はテミルカーノフの指揮する音楽を、勝手にもっと歯切れのよい、現代感覚に満ちたものだと思っていた。しかしこの日の演奏は、少なくとも古くからある演奏の域を出ることはなく、従って新鮮味に欠けた。オーケストラは上手く、客席も静かにこのロマンチックな弦の調べに耳を傾けていた。だが、演奏から何か音楽の心のようなものが伝わっては来なかった。演奏にムラがないために、それは一層強調されていたように思う。

続く「春の祭典」は、冒頭からフレーズをたっぷり取った、近年には珍しい遅い演奏だった。それはオーケストラの力量がこの速度でしか発揮できないからなのかはよくわからない。けれども読売日本交響楽団は、ストラヴィンスキーの難曲をほとんど自分達の手中に収めていたと言って良い。オーケストラに関する限り、すべてのセクションの統制された集中力と、管楽器を含めて極めてよく練習された各パートの重なりによって、もう作曲されて100年の年月が経過したかつての「現代音楽」は古典作品になっていた。

テンポを落とした指揮は、私の記憶と経験から敢えて言えば、ドラティの演奏に近い。そしてドラティの演奏を含め、私には音楽的な共感が感じられない。あるいは誤解を恐れずに言えば、ショスタコーヴィチ風とでも言おうか。それでも第1部と第2部を続けて演奏したことにより、第2部の前半の神秘的な雰囲気は十分に伝えられていたし、特に第2の後半においては、手に汗を握るような展開であった。

この演奏会は私にとって不思議なものだった。オーケストラも巧かったし、まったくミスもない。音楽専攻の学生も多い聴衆は、行儀が良くて好意的、音楽も迫力があって呼吸している。改装した東京芸術劇場の音響は、おそらく都内最高であろう。だが何かが足りない。それがよくわからない。指揮者に音楽に対する共感が欠如しているのだろうか。 それとも読売日本交響楽団はいつもこのような演奏だっただろうか。

が、しかし、この演奏会には珍しくアンコールがあった。本演奏会を最後に退団するコンサート・マスターのデヴィッド・ノーラン氏のために花束も届けられ、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から有名な「ワルツ」が演奏されたのだった。この演奏は、実に素晴らしかった。オーケストラががよりリラックスしたなかで、最高の気分でダイナミックな演奏を繰り広げたからだ。日本のオーケストラがこのような音色に輝いた経験は私には初めてだった。そこにはまさにロシアの音があった。

そうか、テミルカーノフという指揮者はとことんロシア風な指揮者だったということか。私がよく聞く中欧やイギリス、あるいは米国の演奏とは少し違う傾向を感じ取るべきだった。最近の古楽器すっきり系、あるいは高速パワフル系の演奏ではない、こってりレトロ系の演奏は、また違うヨーロッパ音楽の側面を見せてくれた。

だとすると、かつてニューヨークで聞いたマーラーは、もしかすると今回のような演奏ではなかったのかも知れない。この時に聞いたサンクト・ペテルブルグ・フィルは、ソ連崩壊直後の低迷期で、随分米国から帰国した人が入団していたようだった。思ったような音色ではなく、むしろアメリカ的な音色のオーケストラであったことを思い出した。指揮者も歳をとったこともあっただろう。今回の読響の演奏は、その時よりも「ロシア的」だったと思うことにした。そのことが私に少し混乱を生じさせたのではないかという結論に、一日が経って達した。

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