ベートーヴェンが書いたとされるカデンツァは全部で3種類もあるそうだが、良く演奏されるのはその中でも長大なもので、彼自身によって初演されたようだ。作曲家というよりはピアニストとしてウィーン・デビューしたベートーヴェンは、自分のテクニックをしらしめるためと思えるような曲を書き、「大協奏曲」と名付けた。そのクライマックスに2つのカデンツァ(第1楽章と第3楽章)置いたことは明白である。ベートーヴェン自身によるカデンツァはあまりに見事なので、多くの録音ではそれが使われているようだ。
で、丁度N響の定期公演のテレビ番組を見ていたら、ドイツ生まれのピアニスト、ラルス・フォークトが独奏を弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が始まり、その見事な演奏に感銘を受けたところだったので(指揮はロジャー・ノリントン)、そのフォークトによるピアノ協奏曲第1番のCDを聴いてみることにした。
サイモン・ラトル指揮のバーミンガム市交響楽団の伴奏によるEMI録音盤(95年)は、よくあるように第2番とのカップリングであるが、このCDには珍しいことに、もう一枚CDが付いていて、そこにはグレン・グールドが作曲したカデンツァによる演奏が収められているのである。しかもカデンツァ以外の部分もまるごと入っているので、他の部分は重複することになるのだが、確かにどちらも(もしかしたらグールド版のほうが)完成度の高い演奏である。従ってカデンツァを自然な流れの中で、全く別のバージョンとして楽しむことができる、という趣向である。
第1楽章のカデンツァは、グールドの箇所に来ると、まるでバッハのフーガが間に挟まったように思えてくるから面白い。同じことは第3楽章でも言える。こちらはもっと華やかだ。どちらも長さはベートーヴェンのに比べると短い(普通の)長さだが、グールドの作風はベートーヴェンとはずいぶん異なっているのでそのコントラストが面白い。しかもその繋ぎ目が何とも自然なのだから聞いていて面白い。
さてベートーヴェンの第1楽章のカデンツァは、それだけで5分程もある大規模なものだ。その終わりかけで、もう終わるかと思いきや、意に反して静かなタッチが一瞬挟まる。あれっ、と思ったところで一気にオーケストラとピアノが同時にコーダへ雪崩れ込む。ここの瞬間が私は好きだ。だが、演奏によってはその強弱を付けないものもあって、エッシェンバッハのもの(カラヤン指揮)などは、そういう感じなのだが、私が最も好んでいるラン・ランの演奏(指揮がエッシェンバッハ)は、ここぞとばかりに強調してみせる。
実演で聞くと、ここの第1楽章のカデンツァは息を飲んで聞くところだ。だがベートーヴェンはこの曲を最後に、長大なカデンツァを終結部近くに置くことを避けるようになる。それにしてもこの曲には、まだ苦悩に満ちたベートーヴェンがいない。若くてエネルギーのみなぎるベートーヴェンは、私の青春の音楽でもある。今でも大好きで、特に陽射しの強さが増してくる冬の終わり頃、この曲が無性に聞きたくなるのだ。
さてベートーヴェンの第1楽章のカデンツァは、それだけで5分程もある大規模なものだ。その終わりかけで、もう終わるかと思いきや、意に反して静かなタッチが一瞬挟まる。あれっ、と思ったところで一気にオーケストラとピアノが同時にコーダへ雪崩れ込む。ここの瞬間が私は好きだ。だが、演奏によってはその強弱を付けないものもあって、エッシェンバッハのもの(カラヤン指揮)などは、そういう感じなのだが、私が最も好んでいるラン・ランの演奏(指揮がエッシェンバッハ)は、ここぞとばかりに強調してみせる。
実演で聞くと、ここの第1楽章のカデンツァは息を飲んで聞くところだ。だがベートーヴェンはこの曲を最後に、長大なカデンツァを終結部近くに置くことを避けるようになる。それにしてもこの曲には、まだ苦悩に満ちたベートーヴェンがいない。若くてエネルギーのみなぎるベートーヴェンは、私の青春の音楽でもある。今でも大好きで、特に陽射しの強さが増してくる冬の終わり頃、この曲が無性に聞きたくなるのだ。
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