2014年2月21日金曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15(P:ラルス・フォークト、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

今年のお正月に始まった日経朝刊の連載「私の履歴書」(小澤征爾編)を楽しく読んでいたら、N響との決定的対立を招いた1962年(昭和37年)のマニラでのコンサートについて書かれているのを発見した(1月18日付)。私はその事実については以前から知っていたが、その原因となったのがベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番であることは初めて知った。カデンツァの終わりかけで、オーケストラが入ってくるのを小澤が間違えたというのである。私はなるほどと思った。特に第1楽章の作曲者自身によるそれは、確かに長くピアノの技巧を見せびらかすようなところが延々と続く。

ベートーヴェンが書いたとされるカデンツァは全部で3種類もあるそうだが、良く演奏されるのはその中でも長大なもので、彼自身によって初演されたようだ。作曲家というよりはピアニストとしてウィーン・デビューしたベートーヴェンは、自分のテクニックをしらしめるためと思えるような曲を書き、「大協奏曲」と名付けた。そのクライマックスに2つのカデンツァ(第1楽章と第3楽章)置いたことは明白である。ベートーヴェン自身によるカデンツァはあまりに見事なので、多くの録音ではそれが使われているようだ。

で、丁度N響の定期公演のテレビ番組を見ていたら、ドイツ生まれのピアニスト、ラルス・フォークトが独奏を弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が始まり、その見事な演奏に感銘を受けたところだったので(指揮はロジャー・ノリントン)、そのフォークトによるピアノ協奏曲第1番のCDを聴いてみることにした。

サイモン・ラトル指揮のバーミンガム市交響楽団の伴奏によるEMI録音盤(95年)は、よくあるように第2番とのカップリングであるが、このCDには珍しいことに、もう一枚CDが付いていて、そこにはグレン・グールドが作曲したカデンツァによる演奏が収められているのである。しかもカデンツァ以外の部分もまるごと入っているので、他の部分は重複することになるのだが、確かにどちらも(もしかしたらグールド版のほうが)完成度の高い演奏である。従ってカデンツァを自然な流れの中で、全く別のバージョンとして楽しむことができる、という趣向である。

第1楽章のカデンツァは、グールドの箇所に来ると、まるでバッハのフーガが間に挟まったように思えてくるから面白い。同じことは第3楽章でも言える。こちらはもっと華やかだ。どちらも長さはベートーヴェンのに比べると短い(普通の)長さだが、グールドの作風はベートーヴェンとはずいぶん異なっているのでそのコントラストが面白い。しかもその繋ぎ目が何とも自然なのだから聞いていて面白い。

さてベートーヴェンの第1楽章のカデンツァは、それだけで5分程もある大規模なものだ。その終わりかけで、もう終わるかと思いきや、意に反して静かなタッチが一瞬挟まる。あれっ、と思ったところで一気にオーケストラとピアノが同時にコーダへ雪崩れ込む。ここの瞬間が私は好きだ。だが、演奏によってはその強弱を付けないものもあって、エッシェンバッハのもの(カラヤン指揮)などは、そういう感じなのだが、私が最も好んでいるラン・ランの演奏(指揮がエッシェンバッハ)は、ここぞとばかりに強調してみせる。

実演で聞くと、ここの第1楽章のカデンツァは息を飲んで聞くところだ。だがベートーヴェンはこの曲を最後に、長大なカデンツァを終結部近くに置くことを避けるようになる。それにしてもこの曲には、まだ苦悩に満ちたベートーヴェンがいない。若くてエネルギーのみなぎるベートーヴェンは、私の青春の音楽でもある。今でも大好きで、特に陽射しの強さが増してくる冬の終わり頃、この曲が無性に聞きたくなるのだ。

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