今日もまたたまたま時間が取れたのでコンサートに出かけようと思ったところ、新国立劇場のオペラ公演だけが辛うじて私の興味を惹いた。だが出し物はプッチーニのオペラ「蝶々夫人」で、特に新演出というわけでもなく、それほど前評判が高いわけでもない。それ故かほとんど全部の種類の席が売れ残っている。ちょっと誰かのブログに出てないか、チェックしてみたものの誰も取り上げている様子はない。これはどういうことかと思ったら、本公演は今シーズン4公演のうちの初日ではないか。歌手も指揮者も以前の公演からは変わるので、過去の評判はあまりあてにならない。
プッチーニの代表作のひとつである「蝶々夫人」は、我が日本を舞台にしたオペラの中で、最も有名な作品であるにもかかわらず、私にとっては何とも乗り気のしないオペラでありつづけていた。やや滑稽なストーリーと、ちょっと違和感のある描き方によるものかも知れず、それは私がかつてニューヨークで見たメトの舞台のあとでも変わらなかった。CDは持っていないし、知っているアリアといえば「ある晴れた日に」くらい。ところどころで現れる日本のメロディーも、それほど心を捉えない。
それでも3階のA席を買い求め、会場へ入った途端に驚いた。何と主役の蝶々さんが交代するではないか。貼られていたのは一枚の張り紙で、その存在はあまり目立たなかった。だがそこである人は声を出して嘆き、ある人はチケット代を返金してほしいものだ、とつぶやいたのだった。
キャンセルをしたのはギリシャ人のソプラノ、アレクシア・ヴルガリドゥという歌手だったが、その後任に抜擢されたのは、日本人の石上朋美である。パンフレットを買ってみると、まだ歌手名がキャンセル前のままとなっているから、かなり急な変更だったのだろう(とはいえ表紙の写真では石上は蝶々さんとして写っているが・・・!)。そしてその案内は、どういうわけか当日のウェブ・サイトにも、ボックス・オフィスにも掲示されていなかったのである。私は、特段歌手にこだわりがなかったので、これがヴィオレッタなら憤ったかもしれないが、蝶々さんなら日本人でいいのではないか、などと気楽に考えて席についた。
第1幕が開くと、曲線状に下った階段の下に、簡素な日本式の部屋がしつらえてあり、障子が貼られた戸の奥と内に歌手達が出たり入ったりする仕掛けになっている。階段上の奥には星条旗がはためき、ここに蝶々さんが印象的に姿を現す。階段の下の家は、本来なら長崎の港を見下ろすところにあるのだろうが、この栗山民也の演出では、行き場を失った蝶々さんの居所を象徴的に現しているという。簡素ながらも、なかなかセンスのいい舞台、それに新国立劇場の大変素晴らしい照明効果によって、視覚的には大変充実したものである。
が、しかし。肝心の音楽が第1幕に何とも乗ってこないのである。指揮者はカナダ人女性のケリー=リン・ウィルソンで、細身で長身の彼女は東京交響楽団を指揮。もちろん新国立劇場には初登場である。一方、蝶々さんと長い愛の二重唱を歌うアメリカ人海軍士官ピンカートン役は、やや小柄なロシア人のミハイル・アガフォノフ(テノール)、彼の友人で良心的アメリカ領事シャープレスには、ウィーンで活躍した日本人バリトン甲斐栄次郎(彼はお正月のニューイヤー・コンサートの中継に出演していた)、蝶々さんの忠実な女中スズキにメゾ・ソプラノの大林智子という布陣であった。
第1幕では両隣の客が眠ってしまい、ちょっと緊張感が強すぎるのか、全体に表情が固すぎると思わざるを得なかった。それでプッチーニの音楽が、意識過剰に響くのである。ストーリーの展開がやや効果を狙いすぎて不自然でもある。そういうわけで拍手もまばらで、今回も残念なことにちょっと外れたかと思われた。休憩時間になっても客の紅潮した顔は見当たらず、心なしかいつもの華やいだ雰囲気が欠如している。バー・カウンターに並ぶ客も少なく見える。
さて。本来ならこれでこの公演は失敗であったと指摘する所である。だが、第2幕の「蝶々夫人」は一転、息もつかせないほどの充実した歌と音楽、それに演技で、このオペラの再発見をしたばかりか、私にとって今シーズンのもっとも素晴らしい公演となったのである。そのことについて、わたしはこれから大いなる興奮を持って書き記さねばならない。けれども音楽はその時に消えてしまう代物である。私がその感動をどれほど伝えられるのかは、その音楽自体の意外性にもまして不確かなものなのだ。
「蝶々夫人」は2つの物語を原作としている。前半はロティの小説「お菊さん」であり、後半はロングの小説、及びベラスコの同名の台本である。前半と後半で日本に対する描き方が異なっている。プッチーニの思慮深い配慮がこの不自然さを取り除こうと努力はしているが、実際には後半の方が音楽的充実は明らかである。前半は少し間の抜けた、受け狙いの要素が強いように感じる。そして2つの幕で舞台がほとんど変化しない。このことが私をして初めてこのオペラに接した際に、大いなる失望を持たざるを得なかったことなのだが、それもこれも当時の日本に関する情報の少なさゆえなのかと長年思っていた。
だが実はどうも、そうではないのである。その必要がないのだ。このオペラの第2幕は、徹底して心の内面のドラマなのである。蝶々さんはいわば、自ら家族を捨て、信仰を捨て、祖国を捨てたにもかかわらず、アメリカ人になれず、しかもピンカートンからは裏切られる。ピンカートンの薄情で浅はかな振る舞いは救いようもないが、たとえそうであっても芸者娘蝶々さんの一方的な愛情は、それがたとえいみじくも幼い少女の恋心であったとしても、少々無理がある。だがそのことを感じさせないような「何か」がこのオペラの醍醐味である。
蝶々さんは3年間も長崎の自宅で待ち続け、女中のスズキとともに暮らしている。ある日金持ちのヤマドリが寄り添っても、取り合おうともしない。そのとき大砲が鳴り軍艦が近づくのが見えると、彼女は夜を徹してピンカートンの帰りを待つ。今から100年以上も前の時代、アメリカが列強に倣って世界進出してきた頃ののとである。当然国際電話もない時代、たった一通の手紙を信じ、夜通し起きて彼の帰りを待つ・・・その時間の経過の何とうるわしいことか。このような時間変化を私たちはもはや、このような古典でしか味わえない。プッチーニは第2幕の場面の展開で、素晴らしい管弦楽のみの間奏曲を作り、そこでみるみる調子を上げるオーケストラに聞き入った。
幕の中にうっすらと舞台があらわれて朝が来たことを知らせる。やがて現れるピンカートンとシャープレス。だがそこに一人の女性が混じっていた。ピンカートンの妻ケイトである。彼女は蝶々さんに息子を渡すようにと告げる。ストーリーからは2歳か3歳であろう蝶々さんの一人息子は、舞台では5歳くらいの子が演じる。歌こそないものの、結構重要な役を演じる男の子を見るていと、私も目頭が熱くなった。最初若干15歳だった蝶々さんも、今では18歳の女性である。そう言えば「ある晴れた日に」以降であった。今公演が見事に蘇ったのは。
第2幕は全体を通して、体が舞台に釘付けになり、目頭は常に熱く、そして聴衆はむせび泣かんとしていた。若き女性指揮者ウィルソンは、この緊張感を維持し、東京交響楽団から素晴らしい音を引き出すことに成功した。石上朋美の演技は、第2幕で円熟の女性となり、ふっきれたように素晴らしかった。彼女は重要な役を突然こなす重圧もはねのけることに成功したのだ。子供の前で母親が自害するというショッキングなシーンは、照明効果がもっとも印象的に使われた場面だったが、子どもは星条旗を振り向くことはなかった。大拍手が客席を覆うかと思われた矢先、大きなブーイングが飛び、全客席が大いに面食らったが、それでも気を乗り直し、ブラボーが盛んに飛び交う結果となった。
おそらく「蝶々夫人」は日本を舞台にした、やや異国趣味の側面が強調されたドラマであるものの、それを越えて表現される心理劇である。そのところまで理解が進むと、俄然このオペラは見どころを発見できるようになる。そのような、普遍化された一段階上の演出こそ、我が日本において確立すべきもののように思う。そして今回の公演は、日本人のきめ細かい演出によって、主役のピンチヒッター演技にもかかわらず、なかなか良い線を行っていたように思う。
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