4000人は入ろうかというNHKホールの客席に座っていたのは、わずか400人くらいではなかったかと思われた。NHK交響楽団の定期公演であれば、定期会員だけでも半分以上は埋まっているのが普通だから、これはもう異常である。私の再三の問い合わせに対しても、電話対応した女性は「予定通り開催します」としか言わなかった。おそらくキャンセルとなれば払い戻しやテレビ収録のやりくりが大変なのであろう。それにしてもこの日のコンサートは、私が出かけたコンサーの中でもっとも聴衆の少ないコンサートだった。
朝から降りだした雪は首都圏をまたたくまに白銀の世界へと変えていった。昼過ぎから積もりだした後は、さらに吹雪となって大荒れに。鉄道や道路が麻痺するのは当然のことで、それでも混乱が比較的少なかったのは、この日が土曜日だったからだろう。多くの人は外出を控え、始まったばかりの冬季オリンピック観戦と決め込んだのかも知れない。
それで私は一層、何としてもこの演奏会に行ってやろうと思ったのだ。こういう時こそ、やってくる客はよほど熱心な客だろう。だとすれば、静かな中で名演奏が期待できるのではないか。思えば東日本大震災の日、コンサートを開いたオーケストラによっては、舞台の上のほうが人数が多かったところもあったようだ。
しかもこの日は、オール・シベリウス・プログラムだった。このような寒い冬の日に聞くにはうってつけである。指揮は尾高忠明で玄人好み。ヴァイオリン協奏曲の独奏は、中国人のワン・ジジョンという人であった。彼女は演奏後に「このような悪天候の中を・・・」と挨拶をして、パガニーニのカプリースの一部をアンコール演奏した。
私がこの演奏でもっとも嬉しかったのは、シベリウスの交響詩「レミンカイネンの伝説」を聞くことができたからだ。この曲は50分くらいの長い曲だが、4つの部分から成っている。第1曲「レミンカイネンと乙女たち」、第2曲「トゥオネラの白鳥」、第3曲「トゥオネラのレミンカイネン」、第4曲「レミンカイネンの帰還」である。いずれも北欧の叙事詩「カレワラ」を題材にした魅力的な作品である。最も有名な「トゥオネラの白鳥」は、チェロやオーボエの独奏が美しい有名な曲だが、第1曲も素晴らしいし、何と言っても「レミンカイネンの帰還」の、疾走しながら高揚していく感じは、ある時の私を虜にしていた。久しぶりに、しかも初めてこの曲を実演で聞ける、そう思うと私は迷わず、大雪の渋谷を目指していた。
そして、私はかねてからN響のシベリウスはいいと思っていた。いつだっかたデュトワの指揮した交響曲第1番などは、そのまま録音してもいいのではないかという位の名演だった。それから尾高忠明の指揮する音楽は、昨年のウォルトンを始めとするイギリス音楽の演奏会で、私は圧倒的な感銘を受けたばかりだった。
その「レミンカイネン」の演奏は、とても「巧い」演奏だったと思う。曲を構成する力がシベリウスの曲調をよく捉えていたと思うのは、指揮者の力量だろう。今のN響は技術的に、とても高い水準にあると思う。そのことは第1曲の冒頭で示された。どこからか吹いてくる北欧の冬の風は、瞬く間に私を凍った湖に誘った。どこをどう聞いても、これは北欧の冷たい冬の朝のようなイメージである。「トゥオネラの白鳥」の冒頭、すっと吹いてくる突風のようなものを、オーケストラが奏でる。シベリウスはそのイメージを音楽にしたのだろうか。
ヴァイオリン協奏曲は別にして、この日の演奏には「冷たい熱狂」のようなものがあった。もしかするととても巧すぎて、ちょっと醒めた演奏に聞こえたかも知れない。まばらな客で会場の温度が上がらない。それでNHK交響楽団が演奏すると、何か大河ドラマの主題曲のような感じになる時もあったが、全体に聴かせどころを捉えた素晴らしい演奏だったと思う。
私はこの曲をエサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルスフィルハーモニー管弦楽団の極めつけの名演で親しんできた。オーケストラの圧倒的な技巧力に支えられて舌を巻くような演奏である。今回のN響の演奏は、その演奏を思い出させてくれた。収録された演奏をもう一度テレビで見てみたいと思う。少ない客にしては多くのブラボーが飛び交った演奏が終わると、出口には列車の運行状況を知らせるホワイトボードが置いてあり、臨時の渋谷行きバスが運行されていた。だが私はその高まった気持ちを抱きながら、雪の中を歩いて行った。土曜日の夜だというのに店は早々に閉店し、行き交う人もまばらな公園通りをゆっくりと下っていった。
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