私のオペラへの旅は、このようにまずイタリアへの旅立ちだった。これは偶然だが、今でもドイツものよりはイタリアものが好きなのは、この体験に基づくのかも知れない。さらに夏の風物詩とも言える音楽祭は、私を気軽にオペラ鑑賞に導いた。カジュアルな服装で、観光客気分でヴェローナに出かけたのは1990年、23歳の時だった。
当時私は夏休みを利用して、スイスのローザンヌにある工科大学に交換プログラムによって滞在する機会を得ていた。私の専門分野であるプログラミングの課題をこなすかわりに、滞在費を大学が支給してくれた。と言っても留学生への奨学金レベルであり、大学の寄宿舎の寮費を払うと、手元にはほとんど残らなかった。
私は毎週末を、ヨーロッパ各地への1泊旅行にあてた。1ヶ月ほどがたち、スイス国内の有名な観光地を巡った後は、いよいよ大好きなイタリアへの旅行を計画した。私のイタリア行きに、どういうわけかイスラエル人とカナダ人の友人が同行することになったが、カナダ人は乗るべき列車に乗ってこない。私たちはミラノ中央駅で彼を待ったが、携帯電話などない時代である。私たちはついに会うことができなかった。あとで聞いたところ、彼は列車を間違え、ヴェローナではなくボローニャに着いていたのである!
イスラエル人は変わった奴で、ミラノの駅前のマクドナルドで昼食を食べたあとは、別れてどこかへ行ってしまった。私が見る予定のオペラなどに興味はなかったのだろう。仕方がないから私はひとりでヴェニス行き急行列車に乗り、猛暑のヴェローナに着いた時にはシエスタの時刻。駅前は閑散としており、ここがあの「ロミオとジュリエット」の町かと戸惑った。

開演は夜の9時で、終演は夜半を過ぎ1時頃。さすがイタリアである。お昼は長いから、観光も十分できる。その前に滞在するホテルを決めなければならない。ところが今度は、困ったことにホテルがどこも満室なのである。思えば夏の観光地に何の下調べもなく行くのは、インターネットのない時代とは言え、少し準備不足だと言うしかない。途方にくれていると、あるホテルのフロントの女性は私に、「特別な部屋があるわ」と言ったのだ!「部屋を見せてくれ」と言うと、彼女は私をprivatoと書かれた部屋の鍵を渡してくれた。そこは従業員用の狭い個室だった。だがシーツのあるベッドが置いてあり、シャワーもついている。私は直ちにそこに決めた。イタリア旅行はなんとかなるものだ、と思った。言葉がわからなくても。
「ジュリエットの家」などを散策して夕暮れ時なると、こんなにいたのかと思うほど大勢の観客が、列をなしている。まるで夏の甲子園球場のような感じである。私はそのスタジアムにチケットを持って入ると、それは見事な空間が目の前に出現した。私の席は中段の、舞台に向ってかなり右側であった。石の椅子に腰掛けて開演を待っている間中も汗が噴き出る。けれども夕暮れともなると心地よい風も吹いてくる。やがて隣の人から順に蝋燭が配られ、お互いに火をつけあうと、何万人もの観衆が火の光の中に灯った。オープニングはこのようなことをするのか。今ならビデオで見るシーンも、全て初めての私は感動し、音楽も始まらないのに何枚もの写真を撮った。
この日、誰が何を歌ったかなど何もわからなかった。けれども終演後に買ったプログラムから、次の様な歌手陣であったことが判明する。アイーダ:マリア・ノート、ラダメス:フランコ・ボニゾッリ、アムネリス:ダイアン・カリー、ランフィス:イーヴォ・ヴィンコ、指揮:アントン・グァダーニョ。
翌日はお昼にヴェローナを発ち、ミラノへ戻る途中、クレモナに立ち寄った。ストラディヴァリウスの活躍した街である。そしてヴェルディが生まれたパルマは、ここからほど近い場所である。そう思うと、何かとても感慨深い気分であった。
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