
珍しい作品だというのに客席は結構な入りである。時間をわずかに過ぎて入ったにもかかわらず、懐中電灯を持って席を案内され、見るともうヤニック・ネゼ=セガンが叙情的な前奏曲を演奏しはじめている。いつもなら協賛会社のCMが流れている時間だと思っていたのに、客席はもう物音ひとつしない静かさで、いつもながら東劇の客席の静かなのには驚かされる。
まず舞台に姿を表したのは3人の女性である。そしてその妖精たちの父親であるヴォドニク(バス・バリトンのジョン・レリエ)は、3人の若き乙女に囲まれて、恐ろしい容貌との対比が印象的である。このような出だしは、どこかで見たことがある。モーツァルトの「魔笛」における3人の侍女とパパゲーノ、ワーグナーの「ラインの黄金」における3人のラインの乙女とアルベリヒ。ドヴォルジャークはこれらの作品を意識していたと想像する。
彼女たちの姉妹で主人公のルサルカ(ソプラノのルネ・フレミング)は、少し遅れて木の上(水の妖精だというのに!)に現れ、有名なアリア「月に寄せる歌」を歌い喝采を浴びる。彼女はこの曲でMETのオーディションに受かり、以来METでの当たり役としてこの役を歌い続けているという。だが音楽が切れるのはこの時だけで、幕間を除けば音楽は続いている。つまりワーグナーの後の作品ということである。作曲は1900年だから、そういえばフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」(1890年頃)に近い。同じメルヘン・オペラという共通点もある。
けれどもチェコ語というのは、(インタビューでも紹介されているが)むしろイタリア語に近いらしい(歌手たちが答えている)。「母音が前に出る感じ」であり、しかも子音が連続している。それは王子を歌ったポーランド人のピョートル・ペチャワによれば、「前歯のない子供が話すポーランド語」だそうである。音楽もワーグナーの影響も感じられるが、むしろヴェルディのようなドラマチックな部分が多いと、私は思った。もちろん民謡風の舞踊音楽が散りばめられ、素朴で美しい旋律は、ドヴォルジャークならではである。
人間の王子に恋した水の妖精ルサルカは、魔女のイェジババ(メゾ・ソプラノのドローラ・ザジック)に頼んで人間に変えてもらう。だがそれと引き換えに彼女は、声を失うのだ。王子も一目惚れをして、ルサルカと結ばれるのだが、彼女はもはや声が出ない。ここが第2幕の面白いところで、主役のルサルカが歌わないのである。王子はいよいよ愛想をつかし、それにつけこんだ外国の王女(ソプラノのエミリー・マギー)が王子と愛の二重唱を歌うのだが、そこにいるルサルカは何もすることができないのだ。
彼女は父親である水の精に助けを求める。ここにまたもやオペラの隠れた主題、父と娘が姿を現す。ジョン・レリエは幕間のインタビューで、スーザン・グラハムにこう告げている。水の精が、どこかで人間そのものを信じていないように思えるのは、全ての父親が娘に抱く感情に似ている、と。ここのインタビューはとても面白い。
第3幕で父親に連れて来られた森の中で、再びイェジババに会う。魔女は彼女の訴えに、王子を殺せば自分も生きられる、だが接吻をすれば王子は死ぬと告げられるのだ。再び現れる3人の水の妖精の美しい3重唱は、悲劇の前のきれいな曲である。全体に残酷な話だが、メルヘン調であることが深刻さを緩和している。やがてルサルカを探して現れた王子は、もはや外国の王女を愛してはおらず、ルサルカに近づく。彼は彼で若く、そして真剣なのである。そして接吻すれば命を失うというルサルカの忠告にもかかわらず、彼女に接吻し息絶える。
ルサルカは愛の犠牲となった王子の存在に触れ、人間の尊さを理解する。ここの最後のフレーズこのオペラの最大の力点が置かれている。神に感謝するルサルカは、はじめて人間の美しさを賞賛し神を讃えるのである。自ら望まなければ知ることのなかった人間社会の醜さと美しさを、妖精の目に託して伝えるスラヴ神話に、「愛か権力か」といったワーグナーの思想、さらにはヴェルディに通じるような運命的葛藤をも内在する心理描写を持たせ、そこにドヴォルジャークは一貫して幻想的で劇的な音楽を付けている。
不思議な作品だと思った。魔女に扮したザジックが出て不気味な歌を歌うと「トロヴァトーレ」を思い出すし、自ら招く愛する人の死という運命は「オテロ」や「カルメン」を、さらには愛のための犠牲に気付くという部分には「トゥーランドット」の主題にも重なった。だがそれを民族的雰囲気の持つ音楽で彩った作品は、他にない雰囲気を持っている。脇役を含め、完璧なキャストで挑むMETの舞台は、このように作品の持つ様々な側面を示し深い味わいを残す。台本に忠実なオットー・シェンクによる演出は安心して見ていられるし、それに何を言ってもネゼ=セガンの集中力を絶やさない指揮に、退屈だと思うことはなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿