だが不満と言えばそれだけであった。歌手の素晴らしさ、そしてそれを固唾をのんで聞き入る観客の、ワーグナーに対する熱い思い入れは、このまたとない公演を世界水準に押し上げていた。第一、バイロイト級の歌手が揃っているのだ。以下にその配役を記そうと思う。
ロバート・ディーン・スミス(T、ジークムント)、シム・インスン(Bs、フンディング)、エギリス・シリンス(Bs-Br、ヴォータン)、ワルトラウ ト・マイヤー(Ms、ジークリンデ)、キャサリン・フォスター(S、ブリュンヒルデ)、エリーザベト・クールマン(Ms、フリッカ) 、その他8人のワルキューレたち。ゲスト・コンサートマスターは昨年同様、ウィーン・フィルのライナー・キュッヘル氏。
ワルトラウト・マイヤーは往年の名歌手で、その名は数々の録音でも知られている。マイヤーがジークリンデを歌う、というだけで「凄い」と思った。それからヴォータンは、昨年の新国立劇場でアンフォルタスを歌ったエギリス・シリンスで、その時は他の歌手がまたあまりに素晴らしく、ちょっと目立たなかったようにも思ったのだが、いや今回のヴォータンの美しい歌声は、最後の幕で真価を発揮した。
シム・インスンのフンディングなどは登場箇所が少ないのが残念なくらいに上手かったし、それに何と言ってもフリッカを歌ったエリーザベト・クールマンの見事な歌いっぷりは、ヴォータンを罵り「正しい」愛の道を語る正妻の役にピッタリじゃなかったか。ぞくぞくするような歌い方である。
ブリュンヒルデのキャサリン・フォスターが登場すると、その大柄な体がいかにもワルキューレ風で、神々の長である父親を超えていく理知的な娘としての存在感は圧倒的に思えた。そうそう、勿論拍手はジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスにこそ盛大に送られた。いやこの辺の歌手はみな、もちろんすべて歌詞を暗記しているし、演じないのがちょっと残念でならない。演奏会形式というのはオーケストラが舞台に居座って歌手も歌に集中しているから、いい部分もある。でもドラマと音楽がもうちょっと融合してほしいのである。そのことが、どうしても、どうしても、惜しい。
ワーグナー随一の完成度を誇る第1幕が終わっただけで、会場は割れんばかりの拍手とブラボーに沸いた。こういうコンサートはちょっとない。この幕はそれだけでオペラを一作品見たくらいの長さと見ごたえがある。だがこれで三分の一である。興奮した観客は30分の休憩時間を、こみ上げる嬉しさをこらえながら過ごす。第2幕の、あの長いモノローグもこれは十分に楽しめる、そう思ったに違いない。そしてそれは実際にそうだったのだ。
前半のフリッカの怒りにも似たような歌い方で緊張感は途切れない。それどころか第2幕になって登場する歌手たちがみな、第1幕の3人にも勝るとも劣らぬ出来栄えだったのだから嬉しかろうはずがない。あっという間に第2幕が終わるのも不思議ではなかった。再び30分の休憩時間をワイン片手に過ごす。
舞台上部には昨年同様、映像が映し出された。第1幕ではさまよう森の中を、第2幕では荒れ地と崖の風景が、ほとんど変化することなく映し出される。いっそもう少しいろいろ写して、できれば照明効果ももう少し取り入れてもいいのに、と私は思ったのだが、できるだけ音楽そのものを邪魔しないように配慮して脇役に徹した感がある。特に第1幕でノートゥンクを抜くシーンなど、実際の舞台ではなかなか演出が難しいのだが、映像を交えればちょっとしたシーンになったんじゃないの、などと思ったりした。わかりにくかったのである。
それでも第3幕の最後で、ローゲが打ち放った炎が山の上から次第に降りてきて山全体を覆うところだけは非常に見ごたえがあった。その前にヴォータンとワルキューレは長い対話の末、別れを惜しむ親子の深い愛情に満たされてゆくのであるが、ここの、涙をそそらずにはいられないシーンは、もはや舞台を想像するしかない。そう考えれば抱擁のシーンなどで結構歌以外の要素にも私たち聴衆は見とれていたのだな、と気づく。だとしたら歌と音楽だけでこのシーンをやることの難しさというのもわかる。でも今日の公演は、シーンのないハンディを補うだけの歌唱力が充分であった。
ローゲの火が舞台を赤く染め、音楽が消え入るようにこだましたとき、私はめったにない感覚にとらわれた。舞台上のオーケストラと歌手がただ動かない映像のように、完全なものとしてそこにあるように感じられたのである。ずっとこのままでいてほしい、と思うのはこのような恍惚感に満たされる時である。そしておそらくそのことは会場に居合わせたすべての聴衆と楽団員にも共通したものだったに違いない。ほとんど奇跡的な音楽の情景がしばし続いた。それは永遠に続いてほしいと願わずにはいられなかった。だから音楽が鳴り止んだ時、大多数の聴衆は拍手をすることをためらった。
不遜にも若干、拍手をしかけた人がいたが、それは当然そうなるべきであるかのように、一旦鳴り止んだ。会場がまだ陶酔を楽しむべきであるという空気に支配されていたからである。そしてしばらくたって誰かが「ブラボー」と叫ぶと、今度は割れんばかりの拍手がとどろいた。幾度となく繰り返される「ブラボー」の中で、会場の多くがスタンディング状態で拍手を送り続けた。5時間以上が経過したあとでも、疲れはなかった。それどころか、春の夜の夢のように爽やかであった。
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