
「イオランタ」から一変、この不気味で異様なまでに陰湿なオペラを見ているうちに気分が悪くなったのであろう。METライブの上演中に席を立つ人が何人かいたのは、その対比があまりに残酷で耐えられないほどだったことを意味しているように思えた。だとすればこの二つの対立的な作品を続けて上演することを提案した演出家マリウシュ・トレリンスキという人の才気あふれる解釈は、見事のその効果を発揮したというべきかもしれない。
彼は幕間のインタビューで、この二つの作品の共通点について触れている。いずれも寓話のような作品ながら、一方では娘を溺愛する以上に監禁してしまう父親の心理を、他方では理由も定かでないながら不気味な男の心理に憑かれていく女性の心理を、まるでホラー映画のように仕立てることにしたというのである。指揮は同じくワレリー・ゲルギエフ。謎の女性ユディットにソプラノのナディア・ミカエル、青ひげ公にはバスのミハイル・ペトレンコ。緊張感を失わず一気にモノクロ世界の中に展開する光を印象的に表現する。
7つの扉の中に現れた光景を、私は何の予習もなしに見た。そしてそれらが人間の男性の深層心理を表していることに疑いはなかった。第1の扉は拷問部屋で、そこの壁は血だらけであった。第2の扉は武器庫で、その武器は血で染まっている。第3の扉の中には宝が戦利品の如く溢れる。勿論血のついた宝物である。
それにしてもこのようにしてまで男性の深層心理を知ろうとする女性は、どういう存在なのだろう。だが確かにそういう人はいる。丁度娘を所有して離さない父親がいるように(「イオランタ」の父レネ王のことである)。音楽は特に印象的な旋律があるわけでもなく、強烈な不協和音の連続で聞く人をも混乱させる。そして二人だけが常に登場する舞台で歌われる歌は、重苦しく時に劇的でもある。
第4の扉の中は秘密の花園で、やっと一息つけるかと思いきやその土には血が染み込んでいる。優しさにも犠牲が潜んでいるのだ。第5の扉。広大な領土。征服欲を表している。ユディットはここまで来ると、残る二つの扉も開けるようにと迫るのだ。青ひげ公は、自分を愛しているのなら扉をあけないようにと願う。そうしておけばよかったのだろう。だが彼女は開けてみたくてたまらず、とうとう彼女に根負けしてしまうのだ。
第6の扉の中には涙の湖があって、孤独で悲しい心の一面を覗いてしまった彼女は、いよいよ最後の扉をも開けるようにと迫る。青ひげ公は過去の女を次々と殺してきた。その噂をユディットは感づいていたからだ。音楽がどのようだったかはよく思い出せない。CDを持っていれば聞くところだが、持っていないし持っていてもあまり聞く気はしないだろう。でもこの文章を書きながら、機会があればもう一度見てみたいとも思った。
第7の扉を開けると3人の女が生きたまま現れ、そしてついにユディットもその中の一人になってしまう。彼女がどうなったかは語られない。そのまま消えてしまうのだ。彼女が最も美しい、と言う青ひげ公は「これで完全に闇の中」と言って城の生活に戻る。
1時間が非常に長く感じられた。この日の上演は聖バレンタインの日にあたり、このような公演を見たカップルはどうなるの、などとインタビューのジョイス・ディドナートは嘆く。「イオランタ」とともに深い人間心理に挑んだ二作品だったが、美しい旋律の「イオランタ」よりは「青ひげ公の城」のほうが何かずっしりと心に残っている。でもはやり歳をとると、こういう作品は見るのがつらいような気がする。ファンタジーの世界も一歩違えば恐ろしい側面を見せる、いや確信犯的に見せつけられた今日の上演だった。
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