2015年7月3日金曜日

マーラー:交響曲第3番ニ短調(S:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター他、ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

前の2つの交響曲によってシンフォニストとしての存在感を不動のものにしたように思えたマーラーが、次は一体どこに向かおうとしているのだろうか、などとこの曲を初めて聞いた時には感じたものだ。ニ短調という調性に加え、深刻なホルンのフレーズで始まる重々しい音楽が、私をこの演奏からしばしの間遠ざけた。続く第4番や歌の入らない第5番の方が親しみやすかったように思ったからかも知れない。

理由はもう一つある。100分にも及ぶその長さである。全部で6楽章もあり、第1楽章だけで30分以上もかかる。CDの時代になっても2枚は必要で、合唱や独唱も入るから演奏される機会は少ない。だがマーラーはこの曲をわずか2年で書きあげている。これは第1番「巨人」や第2番「復活」とは比べ物にならない速さである。すでに人気ある指揮者としての歩みをハンブルクで始めていた。作曲に充てられる時間は、夏の休暇期間中のわずかである。マーラーはザルツブルクに近い湖畔の村シュタインバッハに小屋を建て、そこにこもって作曲を続けたという。このときマーラーはまだ独身である。

この曲に関する逸話の中でもよく知られているのが、まだ二十歳のブルーノ・ワルターがこの小屋を訪ねてきたときのことだ(と言ってもワルターはマーラーの助手だった)。湖畔の向こうに広がるアルプスの雄大な眺め(ということはインターネットの時代すぐにわかる)を見ていると、36歳だったマーラーは、あの独特な風貌、すなわち目の中に悲しみとユーモアを浮かべながらこう言ったというのだ。「君はもうこの光景を眺める必要などない。私がすべて作曲してしまったからだよ」。つまりこの曲はマーラーの自然への賛歌というわけである。

この曲を気楽に聞こうと思ったのは、この時からである。そしてこの曲にはマーラー自身が付けた具体的な副題が付けられているのだ。それは「夏の朝の夢」。後にこの副題は削除される、といういつもの経緯をたどっているが、よく参照されるのでここにもコピーしておこう。

第一部
  • 序奏 「牧神(バーン)が目覚める」
  • 第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 
第二部
  • 第2楽章 「野原の花々が私に語ること」
  • 第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」
  • 第4楽章 「夜が私に語ること」
  • 第5楽章 「天使たちが私に語ること」
  • 第6楽章 「愛が私に語ること」
作曲当初は第7楽章「子供が私に語ること」というのまであったが、さすがに長すぎるとおもったのか、これは交響曲第4番に回された。なお、中間の楽章には「少年の不思議な角笛」からの引用が見られ、第2番から第4番まで続く「角笛交響曲」としての特徴を持っている。第4楽章と第5楽章は続けて演奏され、アルトの独唱、女声合唱、それに少年合唱が加わる。

初めて聞いた時の印象は、何かとりとめのないものだった。深刻な冒頭が行進曲に変わったりしながらも、どちらかと言えば静かに進む音楽は、長いこともあってなかなか特徴がつかめない。木管楽器の鳥の鳴き声のようなフレーズや、静かに想いに沈むような神秘的なメロディー。少年合唱が入ると、とてもさわやかなな気持ちがしたが、それも終楽章のこの上なく美しいいアダージョとなると長いフレーズが続く。それは次第に大きくなり、いよいよ来たなという感じである。この終楽章の演奏の良しあしが決定的に聞き手の印象を左右する。滔々と流れる音楽は静かにうねりながらクライマックスを迎える様子は、ワーグナーやブルックナーの長大な音楽を思い出させるが、ここには紛れもなくマーラーの心が投影され、ナイーブで物悲しい心が潜んでいる。

アルトの歌う第4楽章の歌詞が、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節であることも触れておかなくてはならないことになっている。そして同名の交響詩を作曲したリヒャルト・シュトラウスは同じ時代を生きた作曲家だが、この二人の対比というのもよくなされる分析である。片や映画音楽にもなった絢爛たるオーケストラの魔術師であり、マーラーはそれとは対極的に、常に精神的側面が音楽に投影する。だからこの音楽は自然を題材にしていながら、その意味するところは常に思索的なのである。

そういう曲だから(というかマーラーはいつもそうなのだが)、演奏を選ぶときは「マーラー的」なるものが全面的に支配する演奏か否か、が分かれ目であるように思う。 どちらがいいという言い方はしたくないが、私自身はあまりその側面が強調されすぎるのを好まないほうだ。その理由はやはり共感する部分が、どう頑張ってもとてもマーラーの領域には及ばないと参ってしまうからだ。中には作曲家の心と同体となるような人もいるようで、例えばバーンスタインの演奏はその最右翼である。一方、ここで取り上げるピエール・ブーレーズによる演奏は前者、すなわち客観的で分析的であると言える。ブーレーズの演奏はしばしば速くて素っ気なく、時に冷淡でさえある。けれどもそのような中にオッターの歌う滔々とした歌声が聞こえてくると、別の世界にいるような気持がする。ウィーン少年合唱団の響きはまるで教会の中にいるようだ。

前衛的な現代作曲家が指揮台にカムバックしてストラヴィンスキーやバルトークを再録音し始めたのはとても興味深かったが、そのブーレーズが10年以上にわたって取り組んだのがマーラーの交響曲である。オーケストラを変えながら着実に評価を高め、それまでになかったマーラー像を打ち立てた。この第3番もそのような中の一枚だが、録音されたのが2001年だからもう15年も前のことになる。ウィーン・フィルのふくよかな音色が優秀な録音によって捉えられており、それまでのウィーンの代表的演奏であるアバドの録音でさえ古く感じさせる(とはいえこの演奏はいまもってこの曲のベストのひとつである)。

私のもっているこのディスクは、SACD層を持つハイブリッドのものだ。2003年頃、一瞬だけユニバーサル系の音源がSACDフォーマットで売り出された。大いに期待したが、すぐに廃盤となってしまった。SACD2枚組、というわけでそれなりの出費を強いられたディスクである。

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