歌謡曲の流行作家だった阿久悠の自伝的小説「瀬戸内少年野球団」は、出版されて40年近くが経過し、映画化もされた作品だが、そのような古いものをいまさらながら読もうと思ったきっかけはいくつかある。まず初めにこの作品が、淡路島を舞台にしていることだ。
兵庫県に実感のある私にとって、淡路島は幼少の頃からなじみであった。まだフェリーが深日(大阪府南部)から出ていた頃、私はボーイスカウトの夏のキャンプで洲本へ出かけた。あまりに暑い夏の日々は、海水浴で泳いだ西海岸の青い空の風景を始めとする数々の印象を10歳の私に残した。丁度主人公、足柄竜太 と同じ頃である(1970年代で丁度この小説が書かれたころと一致する)。
2つ目の理由は、上記に加え、祖母が明石の出身で、何か事あるごとに淡路の話をしてくれたことである。話される会話は関西弁だが、その口調は祖母の明石の方言とよく似ている。明石海峡に大橋がかけられて今は神戸との間で簡単に行き来ができるようになったが、その前から岩屋という明石の対岸の街へ、祖母はよくでかけていた。一体どのようなところかと思っていたが、一昨年(2014年) ここを8歳の息子を連れて初めて出かけた。
3つ目の理由はその息子が少年野球を始めたことだ。別に促したわけでもないのに彼は野球に興味を持ち、自分でクラブチームを決め、そして楽しそうに練習に参加している。もっとも平成生まれの彼にとって、野球を始めるにあたってはグローブもバットも、それにユニフォームも最初から与えられ、その前には何度も本物の野球の試合、すなわちジャイアンツやタイガース、それに甲子園の高校野球も体験済みであったことは言うまでもない。
理由の4つ目は、そういう10歳前後の少年の目を通して語られる終戦直後という時代に興味があることだ。日本の近代史上大転換となるこの時期、すなわち第二次世界大戦の敗戦を何歳で迎えたかは、戦後の歴史を語るうえで決定的に重要な問題である。阿久悠、および足柄竜太は8歳であった。これが5年早いと戦時中の教育が全身に染みつき、戦後の民主主義を主に理念の観点で理解しようとする。「解説」を書いている映画監督篠田正浩がまさにそうで、彼はこの小説の映画化もした監督だが、この小説を単純に純粋な少年の心の記憶として理解せず深読みをしてしまう。足柄竜太はいつも不安だったと。
一方、私の両親は昭和17年、及び19年の生まれで、終戦の時の記憶はほとんどない。この世代は受けた教育も最初から民主教育で、すなわち共学であり、教科書に墨を塗ることもなく、そしてそのあとに続く不毛な団塊の世代よりは少し前の、おそらく戦後日本のもっとも恵まれた世代ではないかと思っている。だがあえて言えば、この世代には足柄竜太が経験した戦前の暗さと戦後の明るさ(貧しいが)の対比を身をもって体験してはいない。物心が付いた時には既にB29の飛んでいない空があった。
私は関西弁で会話がなされる小説が好きで、この「瀬戸内少年野球団」もまたそのような小説だが、それに加えて上記の理由から、この作品はまさに今の私にとって「読むべき作品」であった。
阿久悠は文庫本のための「あとがき」に、この終戦直後の数年間を小学生高学年として過ごしたことにこだわっていると書いている。そしてそれが淡路という、比較的都会に近いもののその文化的伝播は途絶えがちな田舎にあって、取り巻く登場人物がみな、内的感情に忠実な関西弁で語られる時、瀬戸内のさえぎられない青空と深い海が象徴するような眩い光の中に、どうしようもなく切ないノスタルジーを感じるのではないか。新しい世界へと分け入ってゆく少年の心がまだ純真無垢で、貧しくとも不安のない数年は、まさに終戦の新しい時代の幕開けとも相まって、心の中に類まれな詞的表現力の源となる能力を育んだのではないか。
だからこの小説のテーマは、民主教育のもとでの野球への実践でもなければ、終戦を迎えた少年の不安(篠田の言うような)でもない。終戦時点で小学生だった自分の世代にしか書けないものがある、と阿久自身が考えたからだろう。その文章は流れるように美しく、時に詩的である。差しはさまれる俳句や流行歌の歌詞が、淡路の季節の表現と重なって独特のハーモニーを醸し出す。
私は高度成長期の真っただ中に生まれた世代であり、上記のノスタルジーをどこまで理解できているのかはわからないが、それでもなお自身の少年時代の一夏を過ごした淡路の自然の風景と、自身の息子の野球への思いを重ねるとき、まるで自分が10歳の頃に戻ったかのような気分にさせられる。美少女波多野武女への淡い恋心は、この小説を小説たらしめる指摘すべきテーマだが、後半の、それも最後の方になって展開する登場人物の新しい展開のその後は、まるで避けるかのように小説には取り上げられない。それは「終戦直後」の奇跡的な時期が終わったことの象徴でもあり、取り上げるべきテーマではないということだろう。だから読者は想像するしかない。
私はこの小説を常夏のバリ島で風に吹かれながら読み、そしてサムイ島の海岸で文章にしている。子供の頃の夏の記憶を思い出しながら、そこに美しい小説が書けるだけの感性を体得することのできた人は、やはり幸せだったのだろうと思う。
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