日経新聞土曜日夕刊に連載されている「名作のある風景」を、私は特に読んだことのある作品が取り上げられた時以外はあまり読まないのだが、その時は違った。生まれ故郷大阪の良く親しんだ土地が紹介されていたからだ。大阪市大淀区。いやその時のタイトルは環状線福島駅付近となっていたかも知れない。
この記事で私は将棋棋士、村山聖のことを知った。わずか29歳で夭逝したこの天才棋士について書かれた書物が「聖の青春」である。そういえば私が米国から帰国して結婚後、何気なく見たNHKの将棋トーナメントで、羽生名人と対局している、眼鏡をかけ、やや落ち着かない様子で正座するやや小太りの若い棋士がいることを発見した。感想戦で負けた彼はぼそぼそと何か言いながら、体をゆすっていたことを覚えている。「いまはこんな若い棋士もいるのか」と、小学校時代は将棋クラブに所属していた私は思った。
ついでながら私の小学校時代、名人は大山康晴がついに敗れて当時最年少の26歳の中原誠となった。彼の講演を心斎橋のそごうに聞きに行った。コンピュータと対戦するという百貨店の企画で、もちろん名人の勝ちであった(当時のコンピュータなんてかわいいものである)。小学校の教頭先生が将棋のファンで、この人によれば天才的な将棋を指すのは加藤一二三だという。加藤九段(当時)は最も若くしてプロ棋士になったことは今でも有名で、その後1982年にとうとう名人になった(その加藤をわずか14才のプロ棋士藤井聡太がそのデビュー戦で破ったのは昨年12月のことである)。
中学に入り、当時の校長先生がいつもほめていたのは谷川浩司名人(当時)で、世の中には若くしてプロの世界に入り、もう大人として立派に活躍している人がいるのだ、とかなんとか言っていたような気がする。私はもう将棋への情熱を失っていたが、大学生になって同級生となった広島出身の友人が、広島にはとてつもなく強いやつがいる、と話していたのを思い出す。彼も中国地方ではかなりのレベルの将棋指しであったから、もしかしたらこの相手は村山聖だったのではないか、どうか。そのとこをこの作品を読んで思い出した。「羽生よりも強いのか?」と私は彼に聞いたと思う。彼は「そうだ」と答えた。
大阪市大淀区は私の高校の校区であった。大阪市の北部のうち何区かには、そういうわけで友人が何人かいた。千里の私と同じ小学生でいつも一緒に将棋を指していたT君も、その後転校して大淀中学の出身となった。小さな会社を営む傍ら喫茶店も出している彼の家を訪ねたことがある。阪急梅田駅から、今ではショッピングモールとなり有名ホテルも立ち並ぶ貨物駅の下を何百メートルものトンネルを潜り抜けていく。T君の同級生で、私の高校時代をともに同じクラブで過ごしたN君もまた大淀中学の出身であった。彼は文化住宅の2階に姉と住んでいて、その生活はとても豊かとはいいがたいようだった。それを知るのも上記のトンネルを抜けて訪ねていったことが一度あるからだ。
さて村山聖九段は私の3年年下にあたり、弟と同学年である。だから彼が単身上阪し、森信雄の門下で生活をし始めた時、大淀中学校に転校しているようだが接点はない。今ではスカイビルやグランフロントなどの高層建築が立つちょっとしたスポットだが、当時は朝日放送のビルとその裏にあるホテルくらいしか目立ったものはない、中小町工場の立ち並ぶ下町であった。ザ・シンフォニーホールというのが出来て、私も何度か福島駅や地下トンネル経由で足を運んだくらいである。
大阪駅を出た神戸方面行の列車が淀川を渡るまでの間、右手に展開するのが大淀区である。もっともここは今では北区の一部になり「大淀」という地名は消えた。その一角のオンボロアパートに暮らし始めた村山聖は、万年床を取りかこむ漫画や食べ残しのラーメンなどが散乱する狭い部屋に閉じこもって、壮絶な闘病をしながら将棋に打ち込んでいた。
大崎善生が書いた村山に関する文章は、その発病から大阪に出てくるまでの生い立ちから始まる。この病気を抱えているが故の困難と、それがもたらす類まれな集中力が、いかにかれの将棋を支えて来たかはこの文章から痛いほど伝わってくる。私が日経の夕刊記事で読んだ「名作の風景」は、まさにその舞台となった大阪の文化アパートの記事であった。
この作品を読もうと思って長年メモしておきながら、なかなか踏み切れなかったのは私自身が大きな病気を抱えているからにほかならない。けれども昨年(2016年)とうとうこの作品が映画化されることになった。私は映画と小説と、どちらを先にすべきか迷ったが、この作品はいずれにしてもノンフィクションであり、事実をどう表現するかに過ぎない以上、どちらが先でも構わないのではとの結論に達し、封切り翌日の日比谷へ一人で出かけたのである。
映画ではその下町アパートのシーンからで、映画は将棋界とそこに集う人々を中心に描いている。とても良くできた作品で役者もとてもうまいと思う。だからこれはこれで素晴らしいが、一方で病気のことや生い立ち、あるいは悲惨な闘病生活については小説にしか描かれていない。村山という人物に迫っているのは、むしろ文章の方である。このように描く視点が異なるため、それぞれ見ごたえ(読みごたえ)がある。
中学を卒業していきなり棋士の世界に入り、その狭き門であるプロを目指すという構図が、今でも厳然と存在する。私はそのことに改めて感慨深いものを感じたが、またそこに短い一生を駆け抜けたひとりの天才棋士がいたことを知るとき、私が感じるのはひとつひとつの体験が持つ密度の濃さである。彼は非常な闘病をしながらも単身上京し、そして棋士たちに囲まれて名人を目指す。映画はむしろこちらが主体である。羽生を演じた役者の、その本人とも見紛うような演技に心を打たれるが、その羽生と村山が対局後の宴会を抜け出して、雪の降る東北の居酒屋で語り合うシーンが秀逸である(もっともこれは映画での創作のようで、小説では時と場が異なりかつ断片的である)。
幼い頃に発病した病気と関連があるのかどうかはわからないが、彼はもう治ることはないと思われた最後の日々を、実家のある広島の病院で家族と過ごす。このシーンは小説にはないが、私にはとても印象に残るものだった。だがそのことを詳しくは書きたくないので後日譚をひとつ。
私は歴史的な事件が起こるとその新聞記事を取っておく趣味があるのだが、先日その整理をしていたら、何の事件で保存したかわたらない新聞が出てきた。日経なので裏面には文化欄。そこに大崎善生氏の文章が載っていた。私は「聖の青春」の映画を見たばかりだたので、そうか、かつてこの作品を紹介した文章があったのでそれを取っておいたのだな、と思っていたら息子が、これは僕の誕生日のだよ、という。これは取っておいた息子の誕生日の朝刊だったのである。
ついでだからその文章を読んでみたところ、これは「聖の青春」の話ではなく大崎氏自身に子供ができる話であった。だが単純な話ではない。彼の妻(はまたプロ棋士である)に届けられていた幼い子供の手紙と死。そして自分の妻に起こる切迫流産との闘い。私はこの文章が偶然にも息子の誕生日に掲載されていたことを、恥ずかしいことに10年後になって初めて知った。生と死はいつもとなりあわせである。ただ病気でない時はそれを忘れている。
2017年1月23日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)
ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...
-
現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得て...
-
当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や...
-
1994年の最初の曲「カルーセル行進曲」を聞くと、強弱のはっきりしたムーティや、陽気で楽しいメータとはまた異なる、精緻でバランス感覚に優れた音作りというのが存在するのだということがわかる。職人的な指揮は、各楽器の混じり合った微妙な色合い、テンポの微妙あ揺れを際立たせる。こうして、...
0 件のコメント:
コメントを投稿