
この公演の注目は、しかしながらこの舞台を最後に引退を表明した二人のソプラノ歌手、ルネ・フレミング(元帥婦人)とエレーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)による歴史に残る贅沢な競演である。もちろんこの二人は、それぞれの役を引退するだけで、歌手生活を辞めるわけではない。だがフレミングの長年この役を歌ってきた貫禄と、ガランチャの理想的とも言えるズボン役が見事に折り重なるシーンは、美しく官能的である。
一方、オックス男爵も負けてはいない。というか、この隠れた主役は道化役としての最高ランクを必要とする難役だろう。バスのギュンター・グロイスベックは、スケベ心満載の田舎貴族を、丸で地で行くような印象すら醸し出す当たり役で、歌と言い役回りと言い、申し分のない出来栄え。シュトラウスは当初、このオペラを「オックス男爵」としようと考えていたようだが、もしそうなっていたら間違いなくこの歌手は、その標題役をこなす第一人者として歴史に名を残すだろう、とさえ思われた。だがバスの歌手が、いくら低音を響かせても、「ばらの騎士」は女性主体のオペラである。何せ3人もの実力派ソプラノを必要とするのだから。
3人目のソプラノ、すなわち成金貴族のファーニナル家の娘で、オックス男爵(は元帥婦人の叔父でもある)の許嫁ゾフィーは、数か月前に出産したばかりのエリン・モーリーによって歌われた。16歳からこの役の当たり役だったと言う彼女は、清楚で真面目な父親思いの女性である。ファーニナル家の行く末を案じ、経済的な困窮を何とかしたいと思っている一途な側面も隠そうとはしない。そのファーニナルはバリトンのマーカス・ブリュックで、2度も心臓発作に見舞われる滑稽な演技が実に面白い。
ロバート・カーセンの演出はいつも見どころが多く、時に天才的である。私はかつて「ホフマン物語」で心底そう思ったが、そのためにも本公演をぜひとも見ておきたかった。彼は舞台設定を1世紀進め、この作品が作られた頃に移した。第1次世界大戦が忍び寄る世紀末の影は、出演者がみな軍隊と関係があるという設定をも読み解き、第2幕では大砲が登場するという大胆さ。それは第3幕にも引き継がれ、娼館、あるいは売春宿の雰囲気をあからさまに表現する。出演者に細かな演技を求め、一挙手一投足にまでつけられた絢爛豪華な音楽と相まって、舞台は大変に賑やかである。
だが、そのことがこの作品の持つ保守的な美しさを減じてしまったのは否めない。饒舌でしかも複雑な解釈は、そもそもこの物語が18世紀を舞台としているにもかかわらずウィンナ・ワルツが横溢することや、婚約者に「銀の薔薇」を届ける風習といった完全な作り話というような、矛盾を設けてまで表現される、ひたすら華やかで滑稽な、つまりは娯楽性の極致ともいえる退廃性、白痴なまでの美しさを覆い隠す。真面目で考えすぎた結果、見どころは多いが主義主張も大きいという、一見中途半端な結果に陥ったのではないか。
私はこの上演がつまらないと言いたいわけではない。歌手は全員素晴らしいし、指揮者のセバスティアン・ヴァイグレと合唱団、それにイタリア人歌手として客演出場したメトの実力派、マシュー・ポレンザーニは言うことがない。だが、私ははまた、時間とともに老いていく人間のペーソスは、何もこれだけのお金をかけなくても表現できたのではないかと思う。このオペラの舞台は、いつも捕らわれたように貴族社会の贅沢を表現するものが多いが、テーマにしていることの普遍性とわかりやすさを考えれば、むしろ極限にまで表現を絞り込んだ演出(それはデッカーの「椿姫」やワーグナーの楽劇でみられるような簡素な舞台表現)があってもいいのではと思う。特に今回のような実力派の歌手が揃えば、それで十分ではないかと思うのだが、いかがだろう。
「ばらの騎士」は不思議な作品である。ちょっとシュトラウスのマジックに、そして下心に乗せられているような気がしないでもないのだが、それにしても音楽の魔法というのは恐ろしい。第3幕で舞台にゾフィーとオクタヴィアンだけが残り、最後の二重唱を歌う時、私は久しぶりに泣きそうになった。こんな美しい音楽があるかといつも思うのだが、それは3時間余りに亘ったどんでん返しと喜劇の果ての急展開になぜか馴染む。それも自然に。この感覚はやはりモーツァルト的である。今回の上演では、このオペラの持つ前衛的な響きが十分に表現され、演技にも個人の近代性が表現されていた。もはや古めかしいだけの「ばらの騎士」ではない舞台に接した印象ではなぜか、「時の移ろい」あるいは「老いの哀しみ」というよりも「若さへの憧憬」「過ぎ去ったものへの懐かしさ」が前面に出た舞台だったと思う。
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