東フィル定期の「フィデリオ」(演奏会形式)について書き記すにあたり、どうしても触れないわけにはいかない点は、序曲に「レオノーレ」第3番を取り上げた理由だろう。指揮者のチョン・ミョンフンはプログラム・ノートの冒頭で、「フィデリオ」の深遠な音楽の魂はすべて、「レオノーレ」序曲第3番に集約されているからだと、述べている。そして言葉が思いつかないほどの感動を味わうことになったこのたびの演奏を聴き終えた今、そのことを心の底から実感している。
冒頭の第一音から、いつも聞くオペラの序曲とは違った緊張感が感じられ、一気にベートーヴェンの世界に引き込まれていった。弦楽器によって主題がおもむろに奏でられるとき、そこには何かとんでもないエネルギーが、ドラマの中心に渦を巻いているように感じられた。まるで今回の演奏は、オーケストラが主役であることを主張するように、丁寧で情熱的な序曲が、私を、客席を釘付けにしていった。
ただそれでも、舞台にヤキーノ役の大槻孝志(テノール)とマルツェリーネ役のシルヴィア・シュヴァルツ(ソプラノ)が登場し、第1幕が始まった時は、まだ今回の演奏が特別なものになるとは思っていなかった。チョンも自ら拍手を促し、アリアの合間には休止を挟もうとした。台詞は多くが省略されているし、歌手は出たり入ったりするので、どこで拍手をしていいかわからない。そういった気まずさは、しかしながら最初のわずかの間だけで、以降の指揮は一切の拍手を挟む余地を残さず、一気に最後まで突っ走った。
音楽は集中力を欠かすことなく総じて速い。かといって音楽的なフレーズは十分で、その感覚はクラウディオ・アバドのような洗練さと、スポーツ感覚を併せ持つほどにしなやかで、それでいて音楽性に富んでいる。チョンはジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者だから、そのあたりの歌わせ方が上手いのか、などと納得する間もない。
今日の公演前半の白眉は、レオノーレを歌ったマヌエラ・ウール(ソプラノ)である。彼女は男装して刑務所に忍び込む間は、黒っぽい衣装を着ていたが、長大なレチタティーボとアリア「人でなし!どこへ行く気?」では、その声を2階席後方にまで轟かせ、強靭な意志を持つ女性としての心の動きを、身震いしそうなほど見事に表現した。
彼女があまりに素晴らしいので、ロッコを歌った大柄なフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス) でさえも目立たなくなってしまうほどだが、その声は貫禄があるうえに上品でもあり、どう考えても刑務所長ドン・ピツァロを歌ったルカ・ピサローニ(バス)を大きく凌駕していた。年齢的にもピサローニの方が若く細身で、よく考えてみると若手エリート官僚とたたき上げの担当者のような関係を彷彿とさせる。ピサローニはやや力不足にも思われたし、神経質にも感じられたことが、かえってそういった印象を強めたのは面白い。
チョンはオーケストラを一気果敢にドライブし、すべての楽器のセクションが集中力を絶やさず、音楽に無駄がない。第1幕を終わった時点ですでに8時半を回っており、定期演奏会の中では破格の長さだが、そういう感覚を生じさせない。
第2幕の冒頭でいよいよフロレスタンが登場。往年の名歌手とも言えるペーター・ザイフェルト(テノール)である。彼は冒頭から舞台に立ち、牢獄の暗鬱とした不気味な光景を表現するオーケストラの音に注意深く耳を傾けていたが、その姿勢には何かを感じさせるものがあった。歌わないときから彼の存在感は際立っていた。そして一声「おお神よ(Gott!)、何という闇だ!」を叫んだ時の、鳥肌が立つほどに圧倒的で、美しくも力強い歌声に、私は全身がしびれた!
声というものがこんなにも説得力を持ち、演奏会のすべてを決するものかと思った。彼はオーボエの旋律に乗って朗々と、長いアリアを歌う時の愉悦に満ちた喜びを、一体どう表現したらいいのだろう?ベートーヴェンの音楽が、止めどもなく流れてゆく。「フィデリオ」のもっとも美しい音楽は、同時にベートーヴェンの神髄そのものと言える。物語として低レベルと言われながら、どうして「フィデリオ」が世界中のオペラハウスで今でも人気があるのか?その答えは、この作品がベートーヴェンの作品だからである。最も幸福に満ちた音楽が「レオノーレ」序曲に集約されていると語るチョンの言う通り、ここからの展開は明るさが、次第に勢いを増してゆく。
第2幕の終盤にかけての盛り上がりは、東京オペラシンガーズの迫力に満ち、一糸乱れぬアンサンブルが加わると、唖然とするほどの力を持ち、まるで戦車のように舞台から押し寄せてくる。絶え間なく溢れる自由のエネルギーと愛への賛歌は、この作品が流行りの救済劇などという二流の仮面を脱ぎ捨て、大いなる人間賛歌へと変貌を遂げる。その有様は、ベートーヴェンにしかできないものだと確信する。
ベートーヴェンがこの作品で表現したかったのは、ありふれたオペラのテーマとは次元を異にする。だから「フィデリオ」は特別な時に演奏される。第2幕の終結部、第九の終楽章以上の破格とも言える音楽である。私はマーラーが始めた、「レオノーレ」序曲第3番の挿入が、チョンの言うように理解できないものに初めて思えた。最後の大合唱は、最後に登場する長官ドン・フェルナンドを歌う小森輝彦(バリトン)を加えた主役6人の声でさえ聞こえにくい程の爆発的フィナーレとなり、最高潮のフォルッティッシモになっても破たんせず、一気にほとばしる様は、圧巻の一言に尽きる大名演だった。
会場がどよめき、ブラボーが乱れ飛ぶ。東フィルの定期はほとんど来たことがなく、チョンの指揮も年末の第九ただ一度だけという経験だったが、私は指揮によるところの大きい今回の演奏会に、惜しみない拍手を送りながら、ちょっと考えを改めなければと思った次第である。
今月は奇しくも新国立劇場で新演出の「フィデリオ」が上演される。こちらは東フィルではなく東京交響楽団だが、同じ劇場で競演する二つのオーケストラの聴き比べとなる。舞台の予習を兼ねて聞きに行ったコンサートだが、これ以上望めないほどの名演に接してしまった。もしかしたら舞台上演がつまらない結果に終わることにはならないか、今から少し心配なほどである。
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