空前絶後の規模を誇るマーラーの交響曲第8番は、「一千人の交響曲」という異名を持つ。それは実際にこの交響曲を演奏する演奏家が1000人にも達するほどの数に上るということから、誇張ではない。私はこの交響曲を中学生の頃に知った。レコード芸術誌の別冊に名曲名盤を紹介した本があって、それが我が家にもあったのでが、主要な作品について3つの録音が取り上げられているというものだった。確か1980年頃のことである。
マーラーの交響曲第8番は、当時数えるほどしか録音がなく、それもそのはずで、これほどの規模の作品となるとなかなかレコード会社を悩ませるものだったのだろう。で、その時に紹介されていたのは①ショルティ盤、②ハイティンク盤、③朝比奈隆盤の3種類だったように思う。これが当時入手可能なレコードだった、というわけである。そして朝比奈隆がこの曲を日本初演した際には、大阪フェスティヴァル・ホールに実際、1000人を超える演奏家が登場したと解説されていた。
そんな作品だから、レコードはおろか実演に接する機会などない、と思っていたが、その時は案外早く訪れた。会社員となって東京に引っ越したばかりの頃、読売日本交響楽団の定期会員となった1992年の秋に、第300回となる記念の定期演奏会として、この曲が取り上げられたからである。土曜日の夜、私はサントリーホールの2階席で、この曲を聞いた。指揮者のズデニェク・コシュラーが小さな体をいっぱいに広げ、顔面を紅潮させながら必死に指揮する姿と、演奏が終わった時に声を出して安堵のため息を漏らしたオーケストラのプレイヤーの表情を鮮明に覚えている。
80年代に入り録音が相次いだこの曲も、今では普通に取り上げられることが多くなった。だが私がこの曲を実演で聞いたのはこのときだけであり、録音に至ってはテンシュテットの生前の歴史的録音を購入した時だけであった。一般に大きな曲ほど圧倒的な迫力のみが注目されるが、この曲は同時に極めて精緻な曲であると言える。そのことがかえってわかりにくくしている。滅多に触れることのない曲だけに、戸惑うことが多いのだ。
だが録音で聞いてみると、少年合唱団を始めとする歌声に大きなウエイトが置かれ、その緻密で確信に満ちた音楽は、冒頭の一気にほとばしり出るようなパワーや、クライマックスとなる終結部以外の全編にわたって続くことがよくわかる。実演では出演者の規模に圧倒されるが、実際はCDなどで聞く方が音楽がよくわかる。いや実演であっても、素晴らしい演奏を何度も聞けば、次第に等身大の「一千人」に触れることができるのだろうけれども・・・。
そのような大宇宙的空間を持つ交響曲を、マーラーは自身の最高傑作と位置づけた。1910年の自身の指揮によるミュンヘンでの初演は大成功に終わったようだ。マーラーがウィーンでの職を解任されたことがきっかけで、二つの大陸を股にかけた指揮者兼作曲家として精力的に活動するようになった時期である。
第6番から第8番に至る3つの大作は、難解と評されることも多いが、実際にはもっともマーラーらしい作品と言える。信じられないことに何とこの交響曲第8番は、わずか数か月で作曲されている!
記念碑的作品でもあるこの曲は、第6番や第7番で見られたようなアイロニカルな趣向は影を潜め、ストレートな作品となっていると思う。ベートーヴェンが第九で到達したような、宗教を越えた全人類的賛歌を、マーラーはこの曲で表現したのだろう。それゆえに、それまでのマーラーの「毒」は薄められているとも言える。その後に作曲された「大地の歌」や第9番ほどの新しい境地もまだ明確には表れていない。何度か耳を傾けて行くうちに、この曲が規模がでかいだけの見せかけではなく、多くの表情に富んだ素晴らしい作品であるということを発見した。
私の場合、それをわからせてくれた演奏が、ショルティの演奏である。ここでオーケストラはシカゴ響だが、録音はデッカによって演奏旅行中のウィーン・ソフィエンザールで行われた。時は1971年。その理由は、優秀な独唱者や合唱団を集めやすかったことが挙げられるのだと言う。すなわち、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン学友協会合唱団、ウィーン少年合唱団、そして8人の独唱者(ルチア・ポップ、ヘザー・ハーバー、アーリーン・オジェー、イヴォンヌ・ミントン、ヘレン・ワッツ、ルネ・コロ、ジョン・シャーリー=カーク、マルッティ・タルヴェラ)である。
ショルティはいつものように血気盛んに指揮をして、圧倒的なスケールを物凄い熱気でドライヴしている。録音がデジタルだったら、と思う。ライヴさながらの尋常ならざる起伏が、ちょっととらえきれていない。むしろ静かな局面で、この演奏の真価は感じ取れる。ウィーン少年合唱団の透き通る歌声は、この録音のもっとも素晴らしい特徴のひとつだ。
第1楽章と第2楽章に相当する第1部はラテン語で歌われる。ただでさえ大きな規模をさらに大きくしているオルガンがいきなり鳴り響き、「来れ、創造主なる聖霊よ」と歌われる。以後、何が何だかよくわからなくなるのだが、とにかく第1部は、オラトリオかミサ曲のような、とても賑やかで祝祭的な音楽である。
一方、第3楽章と第4楽章にあたる後半の第2部は、より変化に富み多彩である。冒頭オーケストラのみで、夜のしじまを歩くような雰囲気に囚われる。時に起伏が訪れ、第9交響曲で聞かれるメロディーも登場する。合唱が入ると夜の波止場は澄んで厳かとなるが、やがて突如としてバリトンの歌声が響き、さらには少年合唱が登場すると、明るくメルヘンチックな陽気に誘われる。このあたり、この曲の味わいが一気に増す。ドイツ語の歌詞で「ファウスト」の最終シーンが歌われるのだ。
混成合唱と独唱も加わって、曲調は天に上るように崇高で美しく、安らぎと幸福に満ちた曲となってゆく。もしかしたらマーラーの書いた最も美しい曲かも知れない。最後は全員が参加して、圧倒的なコーダとなる。全部で80分程度の長さ。初演時にはヨーロッパ中の知識人が詰めかけたと記録にはある。
ショルティのマーラー全集は、アナログ時代のものとしては最高峰だろう。一方、私が最初に聞いたテンシュテットの演奏は、闘病中にあったこの指揮者の渾身の演奏で、今もって評価が高い。バーンスタインは新しい録音を第8番のみ残して世を去った。このため全集では1975年のザルツブルク音楽祭ライブが採用されている。この演奏はまだ聞いたことがない。デジタル録音された最近の演奏では、何といってもブーレーズの演奏に惹かれる。シュターツカペレ・ベルリンを指揮しているのも興味深い。
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