2018年5月20日日曜日

モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(The MET Live in HD 2017-2018)

手元にカール・ベームがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」のCD(3枚組)がある。言わずと知れた本曲の決定版と称されるものだが、その輝きは半世紀以上たった今でもまったく色あせない。そればかりか、未だにこれまで聞いてきたどの演奏よりもよく聞こえる。これは不思議なことだ。

歌手の良さだけでこうなるとは思えない。歌手に限って言えば、以降に発売されたいくつかの演奏には優れたものが多い。スタジオ録音のアドバンテージも、この録音に特有のものではない。むしろ録音の古さという点で、このベーム盤は不利とさえいえる。にもかかわらず、ベームの演奏がいまなお輝きを失わないのは、それはんもうベームによる演奏であるから、ということに尽きるのではないか。

カール・ベームにしかできなかった自然体で、優雅な演奏は、古く良き時代の演奏とされる。だから近年はもっと新しい演奏をけけばいい、というわけで今となっては、別の演奏を薦める評論家も多くなってきた。私も他の演目ではそのように考えることが多いが、この「コジ・ファン・トゥッテ」に限っては、どうもこのベーム盤以外に相性の合うものに出会うことがない。

前置きが長くなったが、今回久しぶりに聞いたMET Line in HDシリーズの今シーズン8回目の演目は、モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の新演出であった。この公演をどう感じ、どう評価するかについて考えるのは、なかなか大変なことだ。その理由は、これはこれで一つの「コジ」の今風な世界を表現することに成功しているにもかかわらず、かつての古風な味わいが、もしかしたら感じにくくなっているという点に戸惑いを覚えるからに他ならない。

演出はフェリム・マクダーモットという人。指揮がデイヴィッド・ロバートソン。以下、フィオリディリージ(姉)にアマンダ・マジェスキー(ソプラノ)、ドラベッラ(妹)にセレーナ・マルフィ(メゾ・ソプラノ)、グリエルモにアダム・プラヘトカ(バスバリトン) 、フェランドにベン・ブリス(テノール)、デスピーナにケリー・オハラ(ソプラノ)、ドン・アルフォンソにクリストファー・モルトマン(バリトン)。ケリー・オハラはミュージカルの歌手で、イタリア語でこの小姓役をこなしてはいるが、あの小憎らしい機知に富んだ利発さを感じることは少ない。真面目なモーテルのハウスキーパーである。

最も心に残ったのは、ドン・アルフォンソを歌ったモルトマンで、安定していて艶のある声は、フィガロなどにも向いていると思う。女声の姉妹は、共通的な声と、やや異にする性格をどう表現するか、とても注意深く選ばれているとは思うが、そのように考えれば考えるほど特徴がつかみにくい。二人の夫役もまたしかりである。歌声においては、欠点はなく、みな素晴らしいと言えるが、誰かが突出しているわけでもない。それがこの重唱だらけの歌劇の難しい点かも知れない。

結局のところ今回のステージの評判は、これが新演出であることに尽きるだろう。その内容は専らミュージカルを意識したもので、舞台は1960年代のコニー・アイランド。序曲が始まると舞台に設けられた玉手箱の中から道化師たちが次々と登場。彼らはみな英単語の書かれたカードを持っており、その組み合わせの文章でこの作品のテーマが予告される。序曲はオーケストラ音楽に耳を傾け、気持ちを舞台に合わせていくための時間と考えていると、意表を突かれる。早くも舞台では音楽に合わせたパフォーマンスが演じられているからである。このような演出は最近非常に多いが、今回は特に序曲を味わっている余裕がない。

舞台には遊園地とそこで人々を楽しませるサーカスの一団・・・蛇使いや炎の魔術師、剣を飲み込む道化などが登場。コーヒーカップや回転木馬も登場すれば、背景には観覧車のシルエットも映し出されている大変カラフルで動きが多い。言ってみれば読み替え演出のひとつだが、どちらかと言えば表面的で、心理の内面に踏みこむことのない保守的な演出であるとも思える。

港町ナポリののんびりとした光景と、そこで交わされるコミカルでたわいない会話・・・この「コジ・ファン・トゥッテ」のそもそもの持ち味は素朴なものだと思う。それを評論家は、自由を得た市民社会の到来と結びつけ、女性の人権に照らして蔑視されていると嘆くのは、そのこと自体が教条主義的な評論に影響され過ぎているのではないだろうか。けれども昔風の演出には新鮮味がなくなってきており、そのままでは3時間余りのこのストーリーを楽しませるだけの集中力を保持しえない、と今の演出家が考えるのも無理はない。

だからこそ私は、ベームのCDで聞く純音楽的な「コジ・ファン・トゥッテ」から離れることが出来ないのかも知れない。すなわち、そもそも荒唐無稽な舞台を今風のアレンジに置き換えたところで、所詮テーマは変わらず、音楽はひたすらモーツァルトそのものである以上、余計なことはやめて音楽に集中すればいい、という考え方である。私の「コジ・ファン・トゥッテ」に対するアプローチは、そういう意味で新しい境地に達することに失敗していることを白状している。その点は認めざるを得ないのだが。

なお今回の指揮のロバートソンは、大変な充実ぶりであった。それだからこそ、あまり凝った舞台にとらわれることなく、音楽を楽しめるものであれば、それでよかった、などと考えてみたりする。モーツァルトが描こうとした普遍的な人間心理は、どう表現されても同じである。むしろ音楽の豊かさに身を委ねていたい。そういうしっとりとした演奏は、古いCDでしか聞くことのできないものなのかもしれない。

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