2018年5月4日金曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第699回定期演奏会(2018年4月27日、サントリーホール)

ピエタリ・インキネンという1980年生まれの、従って若干38歳のフィンランド人指揮者は、2008年以来時折日フィルの演奏会に登場していたようである。その中にはブルックナーやワーグナーのレパートリーも多かったようだ。だから一昨年の2016年に首席指揮者に就任した後にも、しばしば演奏会に登場していたのは知っていた。だが、今回の演奏を聞くまでは、ほとんどこの指揮者を知らなかった。

オーケストラにとってワーグナーという作曲家もまた、本来はなかなか演奏する機会のない作曲家なのかも知れない。特にオペラを日常的に演奏する団体でない限り、そのレパートリーにワーグナーが含まれることはまずない。しかしプロの音楽家にとって、ワーグナー音楽の独特の世界を表現してみたいと思うのは当然のことだろうと思う。音楽家ならいくつかの有名な前奏曲や、聞きどころを集めたCDなどを聞いてきているだろうから、その音楽を自らの腕で表現してみたいと思うはずだ。

インキネンという指揮者は、ワーグナーの作品をよく取り上げて来たようだ。その中には演奏会形式で、楽劇の一つの幕をそのまま演奏するという形態もあったと知った。オーケストラとしては、評価の高まるワーグナーの演奏を、この若手フィンランド人指揮者とともに演奏することに、徐々に慣れてきていただろうし、信頼関係のようなものも成就されていたのだろう。

さて、このたびのオール・ワーグナー・プログラムは、私が東京・春・音楽祭で楽劇「神々の黄昏」の、大変な名演奏を聞いた直後に知った。よく見るとたった二週間後のことではないか。私は大急ぎでチケットを買おうと思ったのである。なぜならこの演奏会の後半は、マゼールが「ワーグナーの音を一音も付け足すことなくつなぎ合わせた」ニーベルングの指環の音楽で構成される「言葉のない指環」という作品が演奏されるからだった。

ところがその公演は、1年後の同じ月、すなわち今年2018年の4月のことだったのである。アナウンスされてから私はチケット発売日を待った。そしてとうとう今年、2018年の春が来て、私は無事コンサートのチケットを手に入れることができた。しかも前日の購入でB席であった。

会場に着くと空席が目立ち、係の男性も、どうか前の方にお座りになって、などと案内している姿もある。二日連続のコンサートなので、定期会員の中には来ないか振り替えた人も多かったのかも知れない。けれどもゴールデンウィーン前の週末に、少し寂しいとも思った。そしてその思いは演奏が始まると、確信に変わった。これほど見事な演奏を聞き逃しているのは、何ともったいないことだろうか、と。

プログラムの前半は、歌劇「タンホイザー」序曲と、「ローエングリン」から第1幕、そして第3幕への前奏曲を演奏した。いずれもミスのない安全運転の演奏だったと(今となっては)思うが、あのワーグナーのオーケストラを久しぶりに聞いているかと思うと、感動がこみ上げてくる。サントリーホールの音が素晴らしいのと、2階席の前方で聞く音の美しさもあって、私は誘った友人に「な、いいだろう?」と話しかけた。彼はクラシック音楽に興味はあるようだが、実際にはほとんど知らないのだ。

オーケストラを実演で聞く素敵な時間を、私はこよなく愛している。そのことを如実に感じさせる演奏会を選んで出かけている。もちろん外れる時もあるが、音楽だから仕方がない。どういう演奏になるかは、出演者とリスナーとの偶然なる出会い、相互関係で決まる。今日の日フィルの聴衆は、いつものように高齢者が多く、70%程度の入りであったが、醒めた中にもマナーは良く、私はどっぷりと作品につかることができたと言ってよい。

マゼールが編曲した「言葉のない指環」を私は作曲者自身の演奏で聞いている。何年か前のN響の定期だった。NHKホール3階席の中央で、私は何度目かの巨匠の奏でる芸術的な指揮に大いなる感銘を受けたものの、そこは若干音響効果も悪く、そして初めて聞く編曲に少々の戸惑いがあったのも事実である。たとえばこの曲の前半は、「ラインの黄金」に始まり「ワルキューレ」を経て「ジークフリート」に至るまでのダイジェストだが、マゼールらしいショーマンシップが発揮された、たいそう盛沢山な音楽であるために、ひとつひとつのシーンはあっという間に過ぎ去り、ちょっと短絡的に編集しすぎではないかと、残念な気持ちになってしてしまう。ここはもっと感動的な部分なのに、というわけである。いわば名場面集を見ているようで、プロ野球ニュースや映画の予告編のように、メロディーが次から次へと現れては消える。

マゼールは、曲の長さをCD一枚に収まる長さとして70分程度としたようだ。だが、音楽の再生メディアとしてのCDが過去のものになりつつある昨今、これは余計なことだったと思う。一晩のコンサートを前後半に分け、もう少し長い120分程度にすればよかったのではないか、そうすれば「ラインの黄金」から「ジークフリート」のハッピー・エンディングまでももう少しゆとりをもって楽しむことができたのではないか、などと余計なことを考えた。

オーケストラはなかなか良かった。いやそれどころか、あの豪華な金管セクションも冒頭、許容される程度のミスがあったほかは、音楽を邪魔しないばかりか、決まるところは決まった。木管の安定感は音楽に浸るには充分であり、対向に配置された弦楽器からは、艶のある堂々としたワーグナーが流れてくる。これは舞台では経験できないことで、オーケストラがそのままストレートに響くワーグナーは、私は大好きである。

インキネンは速めのテンポで一気に流れを進めるが、そういうところがいいと思った。往年のファンは、少し物足りないかも知れない。でも今風のワーグナーの、颯爽としているのが私の好みだ。そして次々と出てくる有名なメロディーは、後半の「神々の黄昏」において十分に聞きごたえのある作品となってゆく。マゼールはやはり「黄昏」に重きをおいて作曲を進めた結果、前半を少し飛ばさざるを得なかったのではないだろうか。

会場が静かに聞き惚れている。「ジークフリートのラインへの旅」に始まる「神々の黄昏」は、聞くべき部分がすべて出ていると思う。そして名人芸的な編曲は、「ジークフリートの死」で最高潮を迎え、「ワルキューレの自己犠牲」まで続く。「ラインの黄金」の最初のメロディーに回帰する時、私はもうオーケストラが完全なる一つの楽器に思えて来た。目を閉じて聞き入る音楽が、消え入るように鳴り止んだ時にも、誰一人として拍手をする者はなかった。それは十秒以上、いや体感上はもっともっと長く感じられた。心を打たれ、誰もが音を一切立てることのない時間は、見事に長く経過し、それは奇跡のような時間であった。静寂もまた音楽の一部である。そのことが実感できた。

インキネンは何度も舞台に登場し、各楽器の奏者を順に指示して拍手喝采を浴びるようにしている間、私は目頭が熱くなるのを抑えることが出来なかった。久しぶりに聞くワーグナーは、私を陶酔の時間へと導いた。日フィルの定期は数年に一度程度しか来ることがない。だが若い奏者が増え、水準も上がっているように感じる。だからもう少し頻繁に来てもいいなと思った。蛇足だが今夜ソロ・チェロを弾いていた男性は、私の高校の後輩であることを最近知った。急に身近なオーケストラに感じられた当夜のコンサートであった。

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