2018年7月16日月曜日

東京都交響楽団演奏会(2018年7月15日、サントリーホール)

マーラーの「巨人」は、一言で言えば都会風の演奏だった。それもそうで、指揮者のアラン・ギルバートはニューヨーク生まれの日系アメリカ人。ニューヨークフィルハーモニックの音楽監督を8年間勤め、今年から都響の首席客演指揮者に就任する他、来年からはNDRエルプフィル(北ドイツ放送響)の首席指揮者となることが決定しているそうだ。今日は都響との就任披露公演で、演目はシューベルトの交響曲第2番とマーラーの交響曲第1番「巨人」である。

私がこのコンサートに出かけることにした理由は、3つある。一つは、過去に何度も来日しながら一度も耳に触れたことのないギルバートの演奏を聞いてみたかったこと、第2には、これも一度も実演で接したことのないシューベルの交響曲第2番を聞きたかったこと、そして3番目には、マーラーの「巨人」が「花の章」付きで演奏されることである。

マーラーが「巨人」を作曲した時、彼はブダペスト王立歌劇場の音楽監督の座にあって、当初「交響詩」として位置づけ、後に削除されてしまう第2楽章「花の章」を含む全2部、5楽章構成であったことは良く知られている。ブックレットによれば、第1楽章での狩の音型は、決定稿ではクラリネットだが、今回は舞台裏のホルンが務めるようだ。そして削除された「花の章」が復活する。初期の稿とも最終稿とも違う折衷型の楽譜を、どうして取り上げるのか、興味があった。

それはおそらく、ギルバートがハンブルクのNDR響の首席指揮者となることを意識してのことではないかと思う。「クービク新校訂全集版」という今回の稿は、この作品を交響曲として初演したハンブルクで、2014年に初演されている。ハンブルクは「巨人」に関する限り、本家本流の「我が作品」というわけである。

だが演奏は、どうも出だしからパッとしないものだった。特に金管が良く音を外す。もしかしたら連日の猛暑となった真昼の東京には、炙り出された亡霊がいたのかもしれない。極めつけは「花の章」でのトランペットだが、これは2度目には決まった。けれどもホルンの「外れ」は第3楽章あたりまで続いたと思う。第1楽章が雑然とした雰囲気となるのはよくあることだが(CDでも)、朝の静かな靄の中に立ちのぼる若者の目覚めを、私はもっと大切にしてほしいと思う。何か気持ちだけが焦るような演奏が多いのは、緊張した実演であることを考えると仕方がないのかもしれないが。

「花の章」はムード音楽のような緩徐楽章だが、これが聞けるのが実際楽しみであった。けれどもソロのトランペットが残念なことに音を外すと、動揺が広がったのだろうか。第3楽章(通常の第2楽章)は、第1主題の繰り返しを省略し、あっというまに終わってしまったのもつまらない。このスケルツォの、ダイナミックな弦合奏が良く決まっていただけに、もう少し聞きたかった。

コントラバスの独奏で始まる次の楽章も、どことなく落ち着かない。深遠な静かさの中で厳かに始まる「さすらう若人の歌」は、何かとりとめのない繋がりの音楽でしかないようだ。ニューヨークで聞く演奏にも似たようなものが多い。あのトリオ部分の、おそらくこの曲最大の見せ場に至って指揮者は、弦楽器を良く歌わせたと思う。ところが今度は客席がもたない。咳払いが多いのだ。本当のマーラー好きは、今日はいないのかしら。

結局第4楽章に至るまで、真価は発揮されないままであったと思う。この先どうなるのだろうかと、正直心配であった。だが、マーラーの曲の長さは、ある意味で演奏家に挽回のチャンスを与える。特に終楽章は、どの交響曲の場合も最大の力点が置かれ、しかも長い。第1番でも同様で、ここで広がるマーラーの宇宙の広がりは、やはり感動的である。弦楽器の起伏に富んだ中間部では、もっと弦楽器が重厚に響けばと思ったものの、これはもしかしたら真横から聞いているからかも知れないと思いあきらめ、音楽に集中した。

コーダにかけてのたたみかけるようなクライマックスは、この指揮者が常に音楽のエンターテイメント性を重視していることを表していたように思う。あるいはバーンスタインの演奏などがこのようだったのか、覚えていないが、とにかく圧巻の終結部であった。割れんばかりのブラボーが2階席奥から聞こえたとき、この会場にもコアなマーラー・ファンが詰めかけていたことを知った。

満足気に何度も舞台に登場し、オーケストラを四方八方に振り向かせるパフォーマンスを演じながら、この組み合わせで聞くこれからの演奏会も悪くはないと思った。首席奏者の少なさが目立ったが、明日の2日目はミスが減ることが期待できるだろうし、それに来シーズンから始まるプログラムも魅力的である。名曲を力強く指揮すると面白いだろうし、それに良く歌う部分が印象的なのは、オペラの演奏にも威力を発揮するだろう。真横から見る指揮姿はなかなか面白く、指揮のわずかな素振りで音のニュアンスが変化する様は、もうこの関係が良好のものになっていると思わせるに十分であった。

このことを感じたのは、最初のプログラム、シューベルトの交響曲第2番変ロ長調で、私はこちらの演奏の方が全体的な完成度の点でははるかに良かったと思う。どのような細かい表情の変化も表現され、木管楽器が活躍するすべての楽章において躍動的で、しかもミスがない。満足の出来栄えを近くで見ることができた。

若干17歳だったシューベルトのコンヴィクト時代に書かれた輝かしい作品には、もう後年の大規模で、豊かなメロディーが横溢する作風が確立している。「未完成」のような晩年(といっても30歳前後だが)の作品のような、底のない影がないのが、逆説的な意味で魅力でもある。シューベルトも若い頃は、希望に満ちた作品を書いていたのだということがわかるし、そのことが対照的に後年の、孤独にさいなまれる悲しい日々を強調するような気がする。そういう意味で、私なこの作品を聞いただけでも涙が浮かんでくる。

私はシューベルトが好きである。交響曲でいえば、あの宇宙的に長い「グレイト」も、できればずっと聞いていたいとさえ思う。ピアノ・ソナタを優秀な演奏家で聞くと、これらとは打って変わって、深遠でありながらどこか浮世離れしたような内面を覗くような思いがする。同行した妻は「シューベルトの良さがどうもよくわからない」などと言っていたが、私も初めて「ロザムンデ」を聞いた時に同じように思ったものだ。ところが今では、シューベルトの曲がプログラムに上ると、すべて行ってみたいという気持ちに駆られるようになっている。

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