
だがそんな指揮者も9年もの歳月が過ぎると、やがて終わりの日がやって来る。とうとうこのシーズンを最後に、彼は読響の常任指揮者を辞するというのである。最後の月であるこの3月は、カンブルランの集大成とも言うべきプログラムの数々で、イベールとドビュッシーから成る「名曲シリーズ」、シェーンベルクの大作「グレの歌」、さらには得意とするフランス現代ものばかりからなる特別演奏会「果てしなき音楽の旅」と続き、最後にはベルリオーズの幻想交響曲を中心とするマチネーシリーズで締めくくる。
マチネーシリーズは2日間同じブログラムなので、その後の方の24日のコンサートが文字通り最終公演である。カンブルランは今年71歳というから、これでもう我が国のオーケストラの指揮台に立つことはない、ということはない。すでに京都市交響楽団や広島交響楽団への秋の客演が決まっているらしい。だから本人も「全く悲しくはない」と話している(インタビュー記事による)。
それでも今月のコンサートに対する意気込みは相当なものだったようだ。さらにはTwitterで検索して見ると、賛辞に溢れたツイートが目立つ。そして私も出かけた東京芸術劇場での公演もまた、非常にしっかりとした気合の入った演奏で、読響の観客がこれほどまでの拍手を送る姿は初めてだった。3階席からは指揮者の表情を読み取ることはできなかったが、おそらくは本人も満足の行く演奏会だったのだろうと想像する。何度も続くカーテンコールの最後にはオーケストラから思いがけない「フレンチ・カンカン」のプレゼントが待っていたのには驚いただろう。
盛況のコンサートが終わっても鳴り止まない拍手に応え、2度もソロ・カーテンコールに応えた指揮者には、総立ちの観客からブラボーが絶えなかった。そのシーンを観客はスマホ写真に納め、SNSに投稿することが公式に許容されていた。だから私もこのブログに掲載することができる。このいきな計らいも保守的な読響には珍しい。
プログラムは満席の聴衆とオーケストラが緊張する中、ベルリオーズの歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲で幕を開け、さらにピエール=ロラン・エマールを迎えてのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と続いた。フランスものばかりを並べた今月のコンサートの最終日に、このフランス人のカップルはベートーヴェンの作品を選んだことも意外である。しかも第3番は唯一の短調のピアノ協奏曲である。エマールは丁寧にこの作品を弾き、最後にはクルターグの「遊戯」という曲からの一節をアンコールした。
休憩を挟んで挑む幻想交響曲に、客席は固唾を飲んで聞き入っている。オーケストラもいつもと違う雰囲気である。その様子が伝わって来る。どこまでも煽ることなく、きっちりと丁寧な演奏も第3楽章になって木管楽器が活躍する牧歌となると、音の溶け合いもさらに深まり、第4楽章「断頭台への行進」から終楽章にかけては、圧倒的な音量と統制の中で聞くものの心を掴んでいった。
このコンサートは私にとって特殊な経験となった。実にしっかりと申し分のない象徴的な演奏会なのだけれども、どこか感動しないのである。その原因はいくつか考えられる。まず私の体調。花粉症の季節に、どことなく雑音の多い観客。いくら最前列とは言え3階席ともなるとオーケストラの音は総じてこじんまりとしており、反射音が多いためか特に弦楽器に厚みが感じられない。いやもしかすると、それはフランス音楽を意識した音作りなのかも知れない。でも昨秋に聞いた井上道義によるマーラーの時にも感じたのだが、これは読響の限界を示しているのだろうか。それともホールの特性か(新国立劇場で聞いた「神々の黄昏」は素晴らしかったし、やはり昨秋のアントニーニの演奏会も悪くなかったのだが)。だがそういうことは、この記念になるような演奏会に対しては、避けようと思う。私は一期一会ともなるカンブルランの体験に、その最終の公演に立ち会うことができたのだから。
カンブルランが読響の常任指揮者になる前に、私はベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」のビデオを買って持っていた。最初なかなかとっつきにくかったベルリオーズの音楽を、鮮やかに聞かせてくれた演奏だった。だから私は、カンブルランのベルリオーズこそ聞きたいと思っていた。もしかしたら、私が初めて聞いたDVDから数十年が経ち、こちらの耳が、感動的なものを感じなくなってしまっているのかも知れない。肥えてしまった、というのならいいが、心に余裕を失くしてしまっているとしたら、少し悲しい。
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