2019年11月24日日曜日

NHK交響楽団第1926回定期公演(2018年11月22日NHKホール、指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット)

ブロムシュテットがN響の指揮台に立つたびに、失礼ながらもうこれが最後なのだろうか、と思ったものだった。だが今年も巨匠は東京へやってきた。A/B/Cの3つのプログラムをそれぞれ二日ずつこなし、しかも台風被害の爪痕が残る北関東各地への演奏旅行にも同行して指揮したのだ。しかしいくらなんでも93歳ともなれば、現役指揮者としての制約が感じられるのが普通である。ところが指揮台に手助けも必要とせず歩いて向かい、立ったまま指揮をするというのだから、それだけでもう神に感謝するしかない。矍鑠というのでもなく、ごく自然なのである。そこが凄い。

勿論、演奏される音楽が悪かろうはずがない。ブロムシュテットほど若い頃から音楽が毅然と、劣化することなく流れてくる指揮者はない。今回聞いた最後の演奏会も、堂々たるモーツァルトに聞き入った記録をここに書いておこうと思う。プログラムの前半は交響曲第36番ハ長調K425「リンツ」で、後半はミサ曲ハ短調K427である。いずれもモーツァルトがザルツブルクへの帰郷に際して作曲された同じ時期の作品ということになる。

「リンツ」を実演で聞くのは、実は初めてである(と思ったら一度だけ、南西ドイツ交響楽団の演奏で聞いている!記憶に全くないのだが)。モーツァルトの交響曲作品を聞くことも最近ではめっきり少なくなり、一体何年ぶりだろうと思いながら、冷たい雨の降りしきる渋谷をNHKホールへ向かう。今日土曜日のマチネーは、最安値のE席(自由席)が早々と売りきれてしまったようだ。数あるN響の定期公演でも、巨大なNHKホールに関していえば極めてまれで、私の聞く限りでも、一昨年のピレシュの引退演奏会以来だったのではにだろうか(この時の指揮もブロムシュテットだった)。

今回はC席で3階の左端である。ここは3階ではあるものの比較的舞台に近く、値段の割には音響は悪くないという印象である。今回も、それは例外ではなかった。「リンツ」の小編成のオーケストラからは、実にきれいなモーツァルトの音が引き出された。冒頭の序奏から、この曲はさほど楽しくない雰囲気に満たされている。冊子「フィルハーモニー」の解説によれば、それはモーツァルトのザルツブルク帰郷が、いかに憂鬱なものだったかを示しているということだ。

だが私はこの「リンツ」が、かつては最も好きな交響曲だった。それはブルーノ・ワルターによる演奏が大変に優れていたからだ。ワルターの演奏で聞く限り、この曲はとても優雅である。それに比べるとクライバーの映像など、神経質すぎて聞く気にもなれない。だが、モーツァルトの心の内はクライバーの方に近かったのかも知れない。クライバーの方が、曲に込められた作曲者の心象風景をより的確に反映しているのだろうか。

ハ長調ということもあると思っている。「ジュピター」や他の作品がそうであるように、ハ長調のモーツァルトは、あの抜けるような明るさや、乾いた淋しさが感じられない。わずか4日で作曲されたという事情もあるのかも知れない。だが今回のブロムシュテットの演奏は、そういったモーツァルトの憂鬱な旋律を覆い隠す方の演奏だった。昔の(例えばドレスデン時代のブロムシュテットを私は好むのだが)演奏からほとんど変わらない幸福感が演奏から感じられる。90歳を過ぎてこんなにもスキッとした演奏を聞かせるのだから、神業である。N響が実にうまく、二つ以上の楽器の重なりも、まるでひとつの楽器のように聞こえてくる。

その「リンツ」で私がもっとも愛するのは第2楽章である。ここのメロディーはいつまでも聞いていたい。そして嬉しいことに今回の演奏は、第1楽章から最後まで、繰り返しを一切省略しないバージョンで演奏された。いつもはもう終わってしまうのか、と思うようなところがことごとく繰り返され、そのたびに私は幸せな気分になったのだった。決して主張するのではない、曲そのものの魅力をそのまま表現することに徹する真摯な姿勢は、モーツァルトのような純度の高い音楽でこそ真価を発揮したと言うべきだろう。

だとすれば休憩を挟んでの大ミサ曲が、悪かろうはずがない。ソプラノのクリツティーナ・ランツハマーの澄んだ声が、最初のキリエで鳴り響いた時、それはまるで歌声が天から舞い降りてくるような美しさだった。

新国立合唱団は、曲の途中で何度もポジションを変えるという珍しい光景にも出会った。そのパート、パートで求める音響が異なるということなのだろう。そしてトロンボーンは合唱団を挟んだ高い位置に分かれて配置されていた。チェロとコントラバスが左に配置され、ティンパニと他の金管は右、オルガンは左、というように左右で高低の音がまじりあうような配置は、この曲に限ったことではなく最近よく見られるのだが、ミサ曲においては、残響の多い教会のように常に会場をまんべんなく満たし、その広がりを表現するという見事な効果を生み出していた。広すぎるNHKホールにおいても、比較的ムラなく音楽が鳴ったと思う。

だが、私はこのような優れたミサ曲は、やはりより狭い空間で聞いてみたい。モーツァルトが作曲した短調のミサは、「自身の内面の苦悩が反映されている」(「フィルハーモニー」11月号)らしい 。例えば私は今、ヘレヴェッヘの指揮するシャンゼリゼ管弦楽団による演奏を聞きながらこのブログを書いているのだが、ここで聞かれる小編成の古楽器演奏などは、透き通った中に細かい部分まできっちりと聞こえてくる。ライブならでは良さも、身近に聞いてこそ感じられるのだろう。とくにモーツァルトのような音楽では。

もう一人のソプラノ、アンナ・ルチア・リヒターは昨年、ヤルヴィの指揮するマーラーの交響曲第4番で、非常に美しい歌声を聞かせた歌手で私は大いに期待した。その歌声は、やはり同様に素晴らしいものだったが、もしかすると同じソプラノでも、ランツハマーとは声の質が少し違う。むしろメゾ・ソプラノに近い翳りの声がまた、曲の中でうまく溶け合っていたような気がする。なお、テノールはティルマン・リヒディ、バリトンは最後にやっと登場するが、日本人の甲斐栄次郎。

それにしてもブロムシュテットのミサ曲は自然ななかにも敬虔さに満ちており、何か幸福な気分に満たされた。曲が終わらないうちに拍手が始まったのには閉口し、聴衆が興醒めにさせられたのだが、その拍手も次第に大きくなり、最後にはオーケストラが立ち去っても成り止むことはなかった。指揮者はひとり舞台の袖に登場し、軽く手を振っていたが、それも老人のそれではなく、まるで普通の日常の光景のように振る舞っていたのが印象的だった。

前日の朝から降り出した雨は止むことを知らず、明日まで降り続くという。この寒い雨は、羽田空港に降り立ったローマ教皇にも降り付けていたようだ。丁度演奏会の途中の出来事だった。

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