2020年7月23日木曜日

「スペインの旅」(G: 朴葵姫)

朝から夜まで休みなしで続くリモート・ワークが終わり、スマホを持って夜の散歩に出かける。毎日降り続く雨も、この時はあがって遊歩道は濡れている。虹色に電飾された橋は、コロナ禍の異常な日々を少しでも勇気づけようとしているように見える。湿度は高いが、気温が少し低いのがせめもの救いである。

オフィスワーカーにとって在宅勤務は、いまや世界標準の業務スタイルへと変化しつつある。ただ問題なのは、家庭が仕事仕様になっていないことだ。通勤がないのはいいが、公私の区別がつきにくい。仕事中はずっと聞けると思っていた音楽も、結局、この夜の散歩のいっときだけ。そして集中力を要する遠隔会議の後では、難しい曲など聞きたくないと、ここのところは連日かねてから気にしていた韓国生まれのギターリスト、朴葵姫(パク・キュヒ)のアルバムに耳を傾けている。

私が彼女の音楽を聞いたのは、もう10年ほど前のことだ。たまたまラジオか何かで耳にした演奏に心を奪われた。何を聞いたのかは覚えていない。ただ同様の経験をした人は多かったようで、彼女のアルバムはたちどころにヒットし、 同時に数々のコンクールを制覇。若干26歳にして世界的ギターリストとして音楽界を駆け上がっていった。韓国生まれというものの、活躍の舞台は日本のようだ。東京音楽大学を経てウィーン国立音楽大学を首席で卒業している(この学歴はどこかの知事とは違い、詐称されているとは思えない)。

そんな彼女が2012年、淡路島で録音したのが「スペインの旅」というアルバムだった。所属する日本コロンビアの録音で、いわゆるDENONサウンド。隅々まで明晰なデジタル録音は耳を洗うようにヴィヴィッドである。「天使のトレモロ」と称される指使いの空気感が、目前に迫ってくるような。

そもそもギター曲に疎い私は、ここに収められている名曲の数々のうち、タレガの「アルハンブラの思い出」やアルベニスによる「アストゥリアス」くらいしか知らなかったのだが、その他のどの曲を聞いても心の緊張がほぐれて行くような気分にさせてくれる。

例えば、タレガの「ラクリマ」は寝静まった深夜に、ひとり脱力感を楽しむにはうってつけである。そういえばどこか、NHKラジオの終了音楽に良く似ている。もっともこの曲は、NHKラジオが終夜放送となった今、第2放送でしか聞くこととはできない。同じタレガの「グラン・ホタ」は10分近い長い曲だが、途中に太鼓が入ったりしてリズムや音色の変化が面白い。もちろんスペイン情緒は満点。

トラディショナルなカタロニア民謡は、パブロ・カザルスがチェロで弾いた「鳥の歌」で有名だが、リョベートという作曲家がギターの作品に編曲していて、名曲の宝庫と言われる。いずれもつぶやくような曲で、「アメリアの遺言」はひたすら恐ろしく悲しい。また最後のトローバによる「ソナチネ」の第2楽章に至っては、静かに夢の中へと消えてゆくような曲だが、最後は快活なスペイン舞曲風のリズムが戻り、脳に心地よい余韻を残しつつ1時間に亘る「スペインの旅」は終わる。

さてスペイン、である。私がピレネー山脈の西に位置するこの国に初めて出かけたのは、1987年のことだった。南仏マルセイユから列車に乗って国境を越え(ここから急に殺伐とした風景になる)、長い時間をかけてバルセロナに到着した。当時スペインはすでにECの一員になってはいたが、財政的にはまだ貧しく、長く続いた独裁政治の後遺症から抜け出せていないように感じられた。私はそのバルセロナで1泊したあとグラナダに向かい、イスラム文化の残るアルハンブラ宮殿にも出かける予定だった。

バルセロナからアンダルシア地方に直接向かう列車はほとんどなく、確か唯一の夜行列車に乗った。マドリッドを中心に放射状に延びる鉄道網の中で、この列車はローカルな線路を走るのだろう。そして乗り換えようとしていた分岐駅リナレス・バエサで事件は起こった。私が砂漠の中にぽつりと立つ、ごく小さな村の駅に到着したのは、何とマドリッドからグラナダ行きの特急列車が発車した後だったのである。夜行列車は見事に1時間以上遅延し、何もなかったように私一人を、この小さな駅に残して去って行った。乗り換える客など他にはいない。

リナレス・バエサの町並み
私の「スペインの旅」はこのようにして始まり、当時まだヨーロッパの後進国のように言われていたスペインの旅は、おかげで印象深いものとなった。マドリッドから何日もかかると言われたセヴィリャ観光は、今では超高速列車が走り、日帰りも可能となっている。だがアンダルシア地方への旅行は、今もって実現できていない。従って私のこの地方の印象は、子供の時のままである。「アルハンブラ宮殿の思い出」に欠かせないトレモロは、ここの噴水をイメージしている、と確か「名曲アルバム」で紹介されていた。私はこの曲を初めて聞いた時、この演奏は2人の奏者でされているものだと勘違いしたものだ。その時のイメージが、私の頭の中でそのまま残っている。このアルバムを聞きながら、私は30年以上前のスペイン旅行を思い出し、そしてそれよりはるか前のスペインのイメージを膨らませている。


【収録曲】
1. ファリャ:バレエ音楽「三角帽子」より「粉屋の踊り」
2. ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」より「きつね火の歌」
3. ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」より「漁夫の物語」
4. タレガ:ラグリマ(涙)
5. タレガ:アラビア奇想曲
6. タレガ:グラン・ホタ
7. タレガ:アルハンブラの思い出
8. タレガ:前奏曲第10番
9. タレガ:前奏曲第11番
10.  アルベニス:「スペイン組曲」より「アストゥリアス(伝説曲)」
11. アルベニス:「スペイン組曲」より「カタルーニャ奇想曲」
12. トラディショナル(リョベート編):「13のカタロニア民謡」より「アメリアの遺言」
13. トラディショナル(リョベート編):「13のカタロニア民謡」より「盗賊の歌」
14. トラディショナル(リョベート編):「13のカタロニア民謡」より「聖母の御子」
15. トラディショナル(リョベート編):「13のカタロニア民謡」より「クリスマスの夜」
16. トローバ:ソナチネ

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