2020年8月16日日曜日

「サンチャゴへの巡礼(中世スペインの音楽)」(S: キャサリン・ボット他、フィリップ・ピケット指揮ニュー・ロンドン・コンソート)

バロック以前の音楽、いわゆる「古楽」あるいは「アーリー・ミュージック」と呼ばれるジャンルの音楽ディスクを初めて買ったのは、このところのような猛烈な暑さの続いた1993年夏のことだった。当時発売された「サンチャゴへの巡礼(The Pilgrimage to Santiago)」という新譜のタイトルが目に留まった。デッカの古楽レーベル、オワゾリールの2枚組。「中世スペインの音楽」という副題が付けれれ、もちろん知っている曲など皆無。だか詳しい解説書が欲しくて6000円もする邦盤を買うことにした。

サンチャゴとは聖ヤコブを祀るサンチャゴ・デ・コンポステーラのことで、スペイン北西部に位置する巡礼の最終地点である。中世の頃から巡礼地として栄え、フランスからピレネー山脈を越えて続く1000キロ以上にも及ぶ街道は、いまもって人が絶えることがない。いやそれどころか、高度に文明の発達した現代に至って、むしろこのような古風な習慣がブームとなり、世界中からの巡礼者が訪れているという。我が国でも四国霊場を訪ねる人が後を絶たないのと同じである。

この巡礼について、私はかねてから関心があった。今のようにブームとまではいかないものの、古くからこの道を歩く巡礼者は多かった。巡礼の道には彼らが寝泊まりをする修道院や宿舎も用意され、そこには宿坊であることを示すホタテ貝のマークがつけられた。ホタテ貝のことを、フランス語で「聖ヤコブ」という。ホタテ貝のマークは、シェル石油のガス・ステーションにも使われている。

巡礼の宿場町で歌われた音楽は、これまでにもいくつか録音されてきたが、その中でも最も多くの作品、すなわち知られてるほぼすべての作品を網羅したのがこの2枚組というふれこみだった。巡礼は少なくとも13世紀には整備され、これらの音楽は街道沿いの巡礼者用宿泊施設などで奏でられていただろう。当時の音楽と言えば、単旋律歌曲、あるいはモテットなどど呼ばれる多声音楽が中心で、トルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人によって継承された。この中世の世俗音楽には、興味深いことにイスラムの影響が見られ、そのことが特に異国的に響く。私たちが普段接しているバロック以降の「クラシック音楽」とは、一味も二味も違い、まるで別の音楽である。

ヨーロッパの文化的背景を持たない私たちが、これらの古い写本をもとにした歌曲に接する積極的な理由は、音楽や歴史の研究者を除けば、それが単に珍しく新鮮で、そして癒しにも通じるリラクセーションを与えてくれるからだろう。実際、私の場合はこの音楽を、真夏の夜に聞くことが習慣になっていた。遠くから聞こえてくるような信心深い音楽が、教会で歌われる正式な典礼歌ではなく、むしろストリート・ミュージックであることも手伝って親しみやすい。ただそのことを知ったのは、このCDを聞いてからのことだった。

このCDでは巡礼の街道に従って、「ナバーロ」「カスティーリャ」「レオン」「ガリシア」という4つの地域に区分けされ、順に紹介されている。独唱や合唱の他に、名前もわからない楽器が登場し、それらが独特の(イスラムの影響を受けた中世の)リズムによって一種独特な世界を形作っている。いまでこそサヴァールなどの活躍によって、これらの古い音楽が見事に蘇っている様に接する機会は多いが、それはこれらの音楽が、学究的に貴重な試みであることよりもむしろ、中世の巡礼とまさに同様に、いわば現代人をも感化するだけのスピリチュアルな魅力を有しているからだろうと思う。

今年の夏は盆踊りも高校野球も中止となり、季節感がないまま過ぎて行く。気が付けば暦の上ではもう秋である。このCDを、私は猛暑とコロナで自宅に軟禁状態になっていたある日、久しぶりに聞いてみた。透き通るような歌声や、遠くから響いてくるエキゾチックなメロディーに、しばし時の経つのも忘れて聞き入った。日課の散歩コースは、夜になっても人が絶えない。ベンチに腰掛け、灯が運河に反射してゆらめく様を眺めている。熱帯夜とは言え湿気の多い生暖かい風が吹いてくると、日中とは違って少しは心地よい。

この音楽を聞きながら、息子が成人したら妻と再びヨーロッパ旅行がしたいと思った。いや、その時はいっそ仕事をやめ、1年かけて世界一周でもいい。その頃にはコロナも終息しているだろう。そう心に誓い、さあ、明日も何とか乗り切ろうと思いを新たにした。



【収録曲】

CD1 ナヴァラとカスティーリャ
1.カンティガ「聖母様によく仕える者は」(カンティガ第103番)
2.モテトゥス「ベリアルは狡猾なるもの」(ラス・ウエルガスの写本より)
3.モテトゥス「主は墓よりよみがえりたまいぬ」(ラス・ウエルガスの写本より)
4.カンティガ「たいしたことではない」(カンティガ第26番)
5.モテトゥス「輝かしき家系より生まれたる」(ラス・ウエルガスの写本より)
6.コンドゥクトゥス・モテトゥス「アルファに,牛に」(ラス・ウエルガスの写本より)
7.4つのプランクトゥス(ラス・ウエルガスの写本より)
8.セクエンツァ「心地よく良き言葉を」(ラス・ウエルガスの写本より)
9.トロープス「神の小羊/良き生活の規範」(ラス・ウエルガスの写本より)
10.モテトゥス「ファ・ファ・ミ・ファ」/「ウト・レ・ミ・ウト」(ラス・ウエルガスの写本より)
11.一族の父(カリストゥスの写本より)

CD2 レオンとガリシア
12.カンティガ「聖母マリアは喜んで」(カンティガ第253番)
13.コンドゥクトゥス「毎年なされる祝典が」(カリストゥスの写本より)
14.カンティガ「星が船乗りを導くように」(カンティガ第49番)
15.コンドゥクトゥス「不滅なる栄光の王に」(カリストゥスの写本より)
16.カンティガ「聖母マリアは責められない」(カンティガ第159番)/「聖母マリアに焦がれて」(同第175番)
17.コンドゥクトゥス「われら喜ばしき一団は」(カリストゥスの写本より)
18.カンティガ「神のみ母」(カンティガ184番)
19.コンドゥクトゥス「全キリスト教徒はともに喜ばんことを」(カリストゥスの写本より)
20.7つのカンティガス・デ・アミーゴ(コダス)
21.巡礼歌「一族の父」(カリストゥスの写本より)

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