そのデイヴィスのベルリオーズ録音の中で、どれがもっとも優れているか、というのは愚かな問いではあるが、経済的に制限のあるコレクターにとっては深刻な問題だった。2000年代になってデイヴィスは、ロンドン交響楽団と主要な作品を再録音している。だが一般的には、古い60年代から70年代にかけての演奏の方が、いまだ色あせることがなく新鮮である。新しいロンドン響との演奏には、古い演奏を超える魅力に乏しいように私には思える。
いまでこそ全集が超廉価ボックス・セットで投げ売りされ、YouTubeなどによって無料映像を無制限に見ることができる時代になったが、それまでは「レクイエム」などの、長大な作品に投資することは大変勇気のいることだった。にもかかわらず、気楽に安価に聴ける時代になった今の方が音楽に耳を傾けることが多いかと言えば、必ずしもそうではない。一体何人の人がベルリオーズの「レクイエム」を音楽配信サイトで聞いているのかはわからない。熱心な聞き手はむしろ、生の演奏会場へと足を運ぶ。たとえ何倍もの金額を払ったとしても、その方が得られる感動が大きいことを知っているからである。ただベルリオーズの「レクイエム」のような作品は、演奏される機会がそもそも少ない。それはこの曲の演奏が、時に1000人にも届くような人数を必要とするからだ。
当時としては桁違いに大規模な作品ではあるが、その中身は純粋にして静かな部分が多い。そのギャップもまた激しいのが本作品の特徴である。これは一方で高い録音技術を必要とする。オーディオ・ファンに好まれる作品である。演奏時間は90分に及ぶ(全10部)。テノール独唱と東西南北に配置された4つのバンダを含むオーケストラには、8台のティンパニも含まれる。合唱は混声6部で、場合によっては800人規模になるという。これだけの規模の作品は、ロマン派のワーグナーやマーラーの時代になって作曲されるに至ったのではなく、すでにベルリオーズによって実現されていた。1837年のことであった。ワーグナーがベルリオーズから影響を受け、それがマーラーに受け継がれた。
ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」は、一般的なレクイエムの曲順とは異なっているのも特徴だ。劇的作品を数多く作曲したベルリオーズの自由奔放な創作意欲は、このような宗教的分野にも及んでいる。曲は通常通り「キリエ」で始まるが、その後は「ディレス・イレ」。「ベネディクトゥス」が登場しない一方で「サンクトゥス」が随所に現れる、といった具合。堅苦しいことは考えず、純音楽的に楽しむというのがこの作品に対するアプローチの一つの方法だろう。できればゆったりと時間の流れる静かな空間がある時に、ひとり静かに耳を傾けてみたい。そんな時間は私の場合、すでになくなって久しいが、幸いデバイスの進化のおかげで、家族とは離れることのできる早朝か夜間の散歩時に、少しずつ聞き進めることができる。
10月になってようやく秋めいて来たこの時期。さわやかな風が吹き抜けていく都会の朝に、私はこの曲を持っていった。冒頭の「レクイエム」の静かな合唱が厳かに流れてくると、丸で吟醸酒を飲んでいるかのような陶酔感が全身を覆った。現代社会に生きる我々でも、一度このようなメロディーを聞くと雑事を忘れ、心が落ち着いてくるのが自覚できる。静寂のうちに10分を超える清々しい時間が過ぎてゆく。
次の「怒りの日」で早くもクライマックスを迎える。四角に設えられたバンダとともに、8台ものティンパニが金管和音と共に鳴り響く。凄まじいまでの音楽的立体効果は、優秀なレコーディング・エンジニアを悩ませてきたことだろう。ここの録音を、他の部分とどう対照づけるかが、ひとつの聞きどころではある。この曲のクライマックスが前半に置かれていることによって、この曲を最初に聞いた時には何か煮え切らないものが残ったような気がした。だがそれも最初だけである。なぜならベルリオーズの真骨頂は、後半の静かな部分にこそたっぷりと用意されているからだ。
続く第3曲あたりからは、静かな部分と派手な部分が交互に現れる。比較的短い第3曲「クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)」のあと、管弦楽主体の部分(第4曲「レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)」)や、逆に合唱のみの部分(第5曲「クェレンス・メ(我を探し求め)」)が続く。このあたりは、実際の演奏で聞いてみたい。それぞれの楽章の色付けの違いや、聞こえてくる音の多彩さを実感すると思うからだ。
続く第6曲「ラクリモサ(涙の日)」は、今一つのクライマックスと言える。再び四角のブラスバンドと合唱が、「最後の審判」を描く。大音量が鳴り響くときでさえ、ベルリオーズの音楽は純粋で透明感を失わない。そのあたりが情動的でありながら天国的な美しさを併せ持つという、独特の離れ業とも言うべきものの実体である。
各楽章が10分程度とたっぷりなのも嬉しいが、第7曲「ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)」は再び管弦楽主体の部分で、しかも極めてロマンチック。ベルリオーズの音楽の魅力を簡単に言えば、フランス風バロックの手法を残しながらも、ロマンチックなことだと気付く。以降の音楽で、もはや大音量の効果は登場しない。精緻で純音楽的な魅力こそが、この大規模な曲の真骨頂なのだと気付かされてゆく。
第9曲「サンクトゥス(聖なるかな)」で活躍するのは、テノールの独唱である。天国的に美しい天使の歌声は、できれば少年合唱で聞きたいと思うのだが、これを採用しているのはコリン・デイヴィスの古い録音である。そしていよいよ終曲「アニュス・デイ」では、冒頭の第1曲「レクイエム」のメロディーが再び登場する。まるで魔法にかかったかのように、心が洗われてゆく。90分にも及ぶ大曲は、静かに染み入るように終わる。ベルリオーズはこの曲をたった数ヶ月で作曲したが、その初演を依頼された政府からキャンセルされるという逸話が残っている。彼はそれでも諦めず、同じ年の暮れに初演にこぎつけた。生前、ベルリオーズは「もし自作で一つの作品を残すだけとするならば、《死者のためのミサ曲》を残してもらうだろう」と語ったという。
この大規模な曲を記録した演奏にはいくつかあるが、ベルリオーズの第1人者コリン・デイヴィスに関して、古いフィリップス録音の方が新しいLSO Live盤よりも、おしなべていいとすでに書いた。ところがこの「レクイエム」に関しては、いくつかのことがわかっている。まず古いフィリップスの録音は、かならずしも録音の観点で満足できるものではないということである。少し聞いてみれば、それはわかる。そこでフィリップスを退社したエンジニアが満を持してリリースしたのが、この録音のリマスター盤(Pentatone)である。Pentatoneは、リリースするすべてのディスクがSACD仕様となっている。どのようにして2chを5.1ch仕様に仕立て上げるのか、細かいことはわからない。しかも私はSACDの聞けるプレイヤーを持っていない。このことから、たとえこのディスクを入手したところで、聞くことができるのはCD層ということになってしまう。一方、LSO Live盤もまたSACDとのハイブリッド盤で、もしかするとSACDでならこの曲の持つ破格の広がりを捉えているのかも知れない。しかし上記の理由で、私はこの演奏も諦めるしかない。
ところがデイヴィスの「レクイエム」には、これらのほかのシュターツカペレ・ドレスデンとライブ収録したディスクが存在するのである。これは1994年2月のことで、ドレスデン爆撃戦没者追悼演奏会として極寒の中、演奏された。いわば特別な演奏会を収録したこのディスクは、静謐な部分でさえ何か熱いものを感じるもので、その様子が良く捉えられている。
一連のベルリオーズの作品を、コロナ禍で不自由な今年、順に聞いてきた。そのあとで感じるのは、この作曲家が持つ美しい調べと、限りない魅力を讃えているにもかかわらず、あまり評価されていないことである。私は特に、どんな作品でも実演で聞いてみたいと思った。「キリストの幼時」や「レクイエム」は、しなしながら演奏される機会が極めて少ない。新型コロナウィルスの蔓延によって変わってしまった世の中から演奏会が消えてしまった。一部は再開の動きも見られるが、小規模な音楽が中心である。大人数が大声で歌うベルリオーズの作品は、それが再びステージに上がるまで長い年月を要するに違いない。私は生きている間に、これらの作品に触れる機会は、もうないだろうと思う。いや今年は、ベートーヴェンの記念の年であるにもかかわらず、あのお祭り騒ぎのような「第九」もすべて流れてしまったようだ。
第1曲 入祭唱とキリエ
第2曲 ディエス・イレ(怒りの日)
第3曲 クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)
第4曲 レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)
第5曲 クェレンス・メ(我を探し求め)
第6曲 ラクリモサ(涙の日)
第7曲 ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)
第8曲 ホスティアス(賛美の生贄)
第9曲 サンクトゥス(聖なるかな)
第10曲 アニュス・デイ
キース・イカイア=パーディ(T)
ドレスデン国立歌劇場合唱団
ジンフォニーコール・ドレスデン
ジングアカデミー・ドレスデン
シュターツカペレ・ドレスデン
コリン・デイヴィス(指揮)
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