そんなドヴォルジャークのチェロ協奏曲について書かれた記事は枚挙に暇がないので、作曲の経緯や作品の詳細は割愛しよう。この曲の過去の多くの演奏についても、多くの人が取り上げているし、そのことをかくいう資格はない。どの演奏もそれなりに素晴らしいとすれば、それはもう曲の持つ魅力があまりに大きすぎて、演奏の違いなどどうでも良いことのように思えてくるからではないだろうか。クラシック音楽を聞くことを趣味にしていて良かったと、素直に喜べる作品である。
ドヴォルジャークのチェロ協奏曲には、録音された名演奏が多い。ここでは私がこれまでに親しんだ演奏を思いつくままに記述するが、どの演奏に浮気しても最後に戻って来る演奏が存在する。それが、フランス人のチェリスト、ピエール・フルニエによる1961年の演奏であることに迷いはない。この演奏は、ジョージ・セル指揮ベルリン・フィルの強固なサポートを得て、神がかり的な完成度に達しており、それを捉えた録音も当時のものとしては最高位に位置するものだ。
私がこのフルニエ盤に出会う前、最初にこの曲を知ったのは、ロシアの巨匠、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの演奏によってであった。彼は鮮烈なデビューとなったカラヤンとの競演盤で、すでに世界中から評価が高かったが、私の家にあったのはカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロンドン・フィルとの演奏だった。ロストロポーヴィチによるこの2つの演奏は対照的で、力がぶつかり合うカラヤンとの演奏とは異なり、ジュリーニとの演奏では平和的な融合を感じることができる。熱がせめぎ合って昇華されてゆく方を取るか、それとも協調的和合を取るかは趣味の問題だが、この曲に関する限り私は後者を好む。
ロストロポーヴィチには後年、小澤征爾と組んだ演奏もあって、我が国では大いに評判を呼んだのだが、恐ろしいくらいにこの演奏の録音は酷い。そしてそのことが大きくこの演奏の存在価値を低めている。ロストロポーヴィチは阪神大震災の直後に来日して、小澤が復帰を果たすNHK交響楽団との特別演奏会でこの曲を披露したが、この時の演奏は魂が乗り移ったように情熱的で素晴らしかったことを思うと残念でならない。
デジタル録音の時代に入って、初めて自分の小遣いでこの曲の新譜を買ってみようと思ったのは、丁度、ヨーヨー・マがロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルとの録音をリリースした頃だった。マは当時、新進気鋭の若手で、古色蒼然としたチェロの魅力を現代的なものに塗り替えて行った。バッハの無伴奏もこの頃のリリースである。以降、若手のチェリストのモデルにもなったのではないかと思わせるような新鮮さで、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲に挑んだ演奏に注目が集まっていた。
ところがこの演奏を聞いて驚いたのは、マゼールの指揮する極端な人工的アプローチであった。「オフレコではないのか」などと揶揄する人もいたくらいに、その流れはしばしば多くのポルタメントや異常に遅いフレーズ、音が小さくなったかと思うとまるで器械のように段階的にクレッシェンドするような、極めて作為的な脚色に満ちていた。しかし聞き進むうちに、この演奏はそのようなアプローチが事前に周到に準備され、洗練度を極めたことによって、まるで写実を極めた絵画が写真のようにリアルであるかのように、見事なものだと思うようになった。聞けば聞くほどに新しい感覚をもたらし、気が付けばこの演奏の虜になっていた。
マの演奏によるドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、その後、マズア指揮ニューヨーク・フィルによって再録音された。私も聞いては見たが、最初の演奏があまりに衝撃的だったことからか、平凡な感じがした。
1990年代に入って私が注目したのは、ハインリヒ・シフがチェロを弾き、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルが伴奏を務めるフィリップス盤だった。当時、プレヴィンのウィーン・フィルの録音が次から次へとリリースされていたが、どの演奏も素晴らしく、そこへドヴォルジャークのチェロ協奏曲ときて私の食指が動いた。この演奏は過去の名演奏に比べると特長が感じられないばかりか、平凡な演奏に思われて私は長年聞かない状態になっていた。
しかし後年になって改めて聞いてみるとなかなかユニークで、新鮮で瑞々しい感覚の中にもロマンチックな香りもする演奏であることに気付いた。もしかすると、近年のベストではないかなどと思ってみたのだが、実際のところそれも長続きはしなかった。そしてフルニエの演奏が、私にとっては性に合っていると思われて仕方がないのだった。
フルニエ、ロストロポーヴィチ、それに新しいマの演奏以外にも、評判の録音は沢山ある。その中で最右翼は、ジャクリーヌ・デュ・プレによる2種類の演奏(バレンボイム指揮シカゴ響、チェリビダッケ指揮スウェーデン放送響)である。しかし彼女が活躍した時代はあまりに短く、フルニエと同時代なのだが、今となってはどうにも録音が良くない。
一方フルニエの演奏は、質実剛健のキリっと引き締まった演奏である。だが決して冷徹な演奏ではない。むしろ知・情・意のバランスが完璧なほどに取れている。ほのかなロマン性と感傷的になり過ぎない理性。技量と感覚の融合が醸し出す独特の味わい。レトロな風味のチェロが、近代的な香りをまとっている。セルの伴奏が、このフルニエの特長を引き出すことに成功し、時にきびきびと先へ進むので、丸で校長先生とキャッチボールをしているかのような緊張感が続く。ここはこう聞こえて欲しい、と思う部分はまさにそのようにきっちりと聞こえる演奏である。
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